【千葉探訪】千葉開府890年と千葉氏 | 嶽正義 チバを盛り上げる!
3月16日の一般質問で、小川 智之議員が都市アイデンティティーの確立について質問。
具体的には千葉開府890年と千葉氏について、掘り下げた質問をされていました。
歴史が好きな私としては興味のある質問です。
注意深く小川議員の質問を聞いていました。


■千葉氏と書いて(ちばうじ)

答弁もさることながら、そもそも皆様は千葉氏をご存じですか?
大抵の方は千葉氏(ちばし)と読まれることと思います。
別に”ちばし”と読んでも不正解ではありません。
ですが”ちばし”と読んでしまうと、千葉市(ちばし)と混合してしまいます。
なので本市では千葉氏(ちばうじ)という呼称で統一されているようです。

こう前置きしても、そもそも千葉氏って何ぞや?って思いますよね。
歴史が好きな私でもそう思うのですからムリもありません。
大半の千葉市民は千葉氏のことをよく分かっていないのではないでしょうか。

■「桓武平氏」と「伊勢平氏」

千葉氏のルーツを辿っていくと「桓武平氏」(かんむへいし)に辿り着きます。
端的に言えば千葉氏は「平氏」の系譜なんですね。
偏に「平氏」と言っても色々な平氏が存在します。
有名なのは平清盛公でしょうか。
清盛公は「伊勢平氏」という平氏一族の流れ。
千葉氏と同じ桓武平氏の流れではあるのですが、正室の子孫側室の子孫という違いが。
この違いを抑えておくと、千葉氏のことがよく分かると思います(笑)

伊勢平氏は桓武平氏の始祖である高望王流(たかもちおうりゅう)。
高望王は別名を平高望(たいらのたからもち)ともいいます。
平高望は第50代天皇である桓武天皇(かんむてんのう)の孫か曾孫(ひまご)です。
桓武天皇の血を引く系譜だから「桓武平氏」って言うのですね。
伊勢平氏の始祖となったのは平維衡(たいらのこれひら)。
維衡の祖父は平國香(たいらのくにか)といいます。
この維衡の家系から清盛が誕生するのです。
國香は平高望の長男であり、正室の子として生まれます。
なので國香が伊勢平氏の祖ということになります。

■「桓武平氏」と「房総平氏」

千葉氏の系譜を辿ると、房総平氏の始祖である平忠常(たいらのただつね)が登場します。
忠常の祖父は平良文(たいらのよしふみ)。
良文は
平高望の五男であり、側室の子として生まれます。
高望の孫である良文から房総平氏の歴史が始まり、良文の子が平忠頼(たいらのただより)。
忠頼の子が忠常で、良文、忠頼、忠常の三代で上総・下総・常陸に勢力を拡大。
その忠常は「平忠常の乱」という朝廷に対する謀反を引き起こします。
朝廷に乱を起こした忠常は、最終的に敗れ、美濃で出家し病没。
しかし許されず、死後にその首は撥ねら京で梟首(きょうしゅ)という公開処刑に。
普通であれば一族郎党も根絶やしされそうなところですが、子等は許されます。
忠常の子に平常将(たいらのつねまさ)がいます。
この常将をもち、千葉氏の初代当主と見なすのが有力。

常将の子に平常長(たいらのつねなが)がいます。
常長は子だくさんで、多くの子ども達が千葉氏、上総氏の始祖となって発展していきます。
常長の次男で千葉大介(ちばおおすけ)と号したのが平常兼(たいらのつねかね)。
常兼の代で初めて千葉の姓を名乗ったとされます。

■千葉氏の勃興


亥鼻城(千葉城)を築いて拠点としたのは、常兼の三男で千葉氏の初代当主である常重。
千葉常重(ちばつねしげ)の代から千葉開府890年の歩みが始まります。
千葉に本拠を移した常重は、千葉郡の中心域を鳥羽法皇(とばほうおう)に寄進。
これを千葉荘(ちばのしょう)とし、今の中央区一体に荘園を築き上げていきます。
後に下総国守護を任官される千葉氏の拠点として勃興します。

常重の長男で、嫡子でもある千葉常胤(ちばつねたね)は「千葉氏中興の祖」といわれます。
常胤公と源頼朝(みなもとのよりとも)公は浅からぬ縁。
常胤公が千葉氏の礎を築き始めたのは、保元・平治の乱がきっかけ。
この保元・平治の乱と聞いて、ようやく「あ~!」と頷く歴史ファンも多いのではないでしょうか。
保元の乱で常胤公は頼朝公の父である源義朝(みなもとのよしとも)公に味方します。
皆様ご存じのように、義朝公はその後の平治の乱で武運つたなく敗死。
清盛公を中心とした平家(へいけ)による全盛期が始まります。

ただここで一つ疑問に思いませんか?
最初にも書きましたように、そもそも千葉氏は桓武平氏のはず。
つまり清盛公と同じ平家一門ではないのかと。
なのに何故、常胤公は清盛公ではなく、義朝公に付き従ったのか。
ここが歴史の面白いところ。

■平治の乱と頼朝挙兵

常胤公が源氏の統領である義朝公に付き従ったのは平治の乱。
しかし平治の乱の前の保元の乱では清盛公と共に戦っています。
なので旗幟が鮮明に分かれたのは平治の乱と言って良いでしょう。
ではどうして常胤公は義朝公に付き従ったのか。
それは下総国の千葉介(ちばのすけ)であったことが大きかったと思います。

坂東武者である坂東八平氏。
この八平氏には「秩父平氏」の秩父氏や、「相模平氏」の鎌倉氏等がいます。
八平氏も元は桓武平氏で清盛公と同じ。
違いと言えば都である京周辺で勢力を構えていたのか、坂東で構えていたのかの違い。
だから常胤公が、他の八平氏と同様に義朝公に付き従っても何ら不思議はないのです。
京で平家が隆盛を極めていたのに反し、関東では苦汁をなめる坂東八平氏が多数いました。
その坂東八平氏が義朝公の遺児である、頼朝公挙兵に呼応しないはずがありません。
ですから元は平氏であっても、源氏の統領である頼朝公に付き従うのには歴史があります。

これらの歴史が頭に入っていないと、せっかくの千葉開府890年も意味がよく分かりません。
それでなくとも千葉氏は、鎌倉幕府の成立に大きな貢献をしたのにも関わらず地味な存在。
歴代のNHK大河ドラマでも、千葉氏で最も有名である常胤公が登場したのは「平清盛」のみ。
それもほんの少しです。
おそらく殆どの人が「そんな人出ていたの?」状態だと思われます。
この様に千葉氏の認知不足というのは本市でも深刻。
千葉開府890年を記念するのなら、早くから千葉氏の周知徹底をした方が良かったです。
そういう思いから、また長々と書いてしまいました(汗)
当ブロマガで一人でも多くの人に、千葉氏について理解していただければ幸いです。