魔法の手ぬぐい | やせ我慢という美学

やせ我慢という美学

夢はきっと叶う ひとつだけきっと叶う
そのために何もかも失ってかまわない
それほどまでの夢なら叶う
一生にひとつだけ
夢はきっと叶う 命も力も愛も
明日でさえも引き換えにして きっと叶う

ここ数年ずっと同じスポーツタオルを使っている。

走った後など毎日洗濯機で回すからしなやかさなどなくなってしまった。

雑巾のように弾力性に欠ける。けど、愛着あるから捨てられないでいる。

 

父系の祖父が小さいころ一緒に住んでいた。ぼくはその祖父と60歳違いだ。当時は農業一筋によく働いていた人だった。ずっと働いていた。

ズボンのベルト(革帯・・・かおび)に手ぬぐいをぶら下げて、実はその手ぬぐいが万能で、汗を拭くのは当然、手を洗った後拭いたり、洟をかんだり、出血を止めたり、僕の顔が汚れているとその手ぬぐいに唾をプイと吹きかけて拭いてくれた。もう万能だった。

洟をかんだ後、使っていない「面」でほかのことに使用していた。

夕方、農作業を終えると井戸の水でサッサッサと軽く水洗いして、それでおしまい。一晩干して翌日また万能手ぬぐいは大活躍をするんだ。

ティッシュなんてなかったよ。SDGSの先がけ。万能手ぬぐい。なんか急にあんな時代が懐かしくなっただけの話。

 

今は本当に衛生面がどうたらこうたらと言っては過剰にきれいにしすぎ。

しかし、昔の人は作業する前によく掌に唾を吐いていた。あれは何だったんだろう。気合でも入れていたのか。単なるすべり止めか、なんかやたら、唾を吐いて自分の手のひらに塗りたくっていた。それは普通だったから変だとも思ったことがない。「勝負」するときには「掌に唾」が普通のことだと思っていた。

今そんなことしたら「汚い」と一言。

けど、僕も「魔法の手ぬぐい」を持とうかと思うぐらい、今の世の中、そのほうが社会や人類のためになるような気がしている。

 

昨日、重松清「その日の前に」を読了。そりゃあ泣くわ。

「なぜ生きているのか」「死ぬとはどういうことなのか」を登場人物のセリフで語らせる。

「よくわからない、分かりっこないけれど、そういうことを考え続けることが正解なんだ」と言う。

生きることや死ぬことについて安易に「わかった」などと早合点するでないぞ、わからないことをわからないままにもやもやしながらずっと考えること。そうかもしれないと悶々として本を閉じる。