特異体質 | やせ我慢という美学

やせ我慢という美学

夢はきっと叶う ひとつだけきっと叶う
そのために何もかも失ってかまわない
それほどまでの夢なら叶う
一生にひとつだけ
夢はきっと叶う 命も力も愛も
明日でさえも引き換えにして きっと叶う

いつもこの話をしては疲れ切る。

もうこれは世の中の基準に照らすと特異体質ともいえるんだろうなあ。

まあ、いつも家人がこの「お人よし体質」に呆れているぐらいだ。

金にならないことならまだしも損なことを自分から選んでやっている、とブツブツ言っている。『口に出せへんけど、みんな思っているわ』とも言われることが多い。そういうことを若い頃からずっとやってきた。「もう慣れたやろ」などと言おうものならその後どうなることやらわからない。

 

かつて、乳飲み子を抱えている自宅兼作業所に最重度の障害児を年間100人近く宿泊させたり、養護学校の送迎までしたり、自分の事や自分の仕事のことを後に回してでも「今困っている人」「今夜のパンと一宿の宿を探している人」を最優先に考えて生きてきた。当時金銭的な見返りとか社会的な評価など小指の先ほども世間からはもらえなかった。役所関係から褒められたこともない。本当だ。これだけのことやっても「ありがとう」の一言も掛けてもらったことがなかった。けど、頼まれたら断ったことがない。家庭内の対立が深まってもやった。「この人困っているやん」・・・理由はそれだけ。「うちはもっと困っているやん」という家人の言い分も今ならわかるが、当時は意味が解らなかった。わけのわからぬ人が泊まりに来て、我が家、我が作業所はカオス状態だった。

この特異体質でなければだれが当時一切の公的補助制度もなかった「無認可作業所」など運営するもんか。

損得しか言わない奴らの薄っぺらさをぼくは笑ってきた、と同時に羨んでもきた。そういうことに「下品さ」しか感じなかったと、同時に腹立っていた。恥ずかしいと思ってきたと、同時に本当はお金が欲しいと思っていたんだ。アンチテーゼとして「薄っぺらい奴ら」のそれとは逆のことをしてしまう。ただ当時から「下品」と「上品」な生き方がアンビバレントに螺旋の輪を書いていた。

実を言うと、今でもぼくは「就職」としてこの世界に足を踏み入れる若者たちに得も言えぬ違和感がある。

僕はこの仕事を「就職先」と思ったことがないここでカネを稼ごうと思ったことがない。最低限の生活が出来ればいい、という思いだけで「困っている人が呼んでいるところ」に来たらここだった、としか未だに思えないでいる。

 

最近のこと。

昨年に引き続いて某看護学校の演習の受け入れを行うことにした。公共交通機関がない地域。一番近くのJRの駅でも6キロ以上ある。行き帰りの送迎を当然することになる。そのことに対して「そこまでする必要あるんか」と言ってきた。

ないよ。何にもないよ。全くその必要などない。お金も受け取らないし、仮にそれを受けいれてもうちに何の利益も還元もない。将来にわたってなんの「得」にもならない。当たり前のことだ。ぼくは損得で考えたことがない。困っている人が喜んでくれるからする・・・それだけのこと。長いスパーンでもその返礼が精神的なものも含めて還ってくるとは思っていない。人生ってそういうもんだ。喜んでくれる人がいる。それだけ。自分の知り合いや身内がそういうことを頼んできたら引き受けるけれど、見知らぬ人が同じ頼みごとをしても断る、という発想がぼくには最初から、そう、生まれた時から欠如している。

コモン(地域コミュニティー)を再生していくという事は困っている人の立場に立って、損とか得とか言わずに正しいと思うことをすること。自分が逆の立場ならそうして欲しいと思うだろうという事をすること。それだけだ。これは形を変えた「雪かき」作業なんだ。

この職場は我々だけのものではない。社会の共有財産なんだ。「公人」として人の役に立つと思う事はどんどんしたい。バカがつくほどの親切だけが取り柄なんだから。

見返りなど一切考えないことがこの社会の普通の体質になっていないからぼくは「特異体質」だと身近な人からも言われているんだ、きっと。

地域が生きやすいとか楽しいとか思われるためには笑顔で「雪かき」をする人、集団、組織が必要だ。

 

今日、新しい建物の引き渡しがあった。34年余にして初めての新築の事業所。随分遠回りした。カネになることを嫌がってきた人間だ。こんな新しい建物が自分の職場になるとは思ってもいなかった。

「特異体質」であるがゆえに勝ちとってきたステータスってある。「ここに頼れば何とかしてくれる」「最後の砦として頼っていこう」そう思ってもらえることも随分多くなった。

今日はそんな自分が決して間違ってはいないと自分の中で褒めてやる日でもあった。