と、いうわけで先週はピリピリとした日々を送っていた。
息子と彼女が「帰って」きた。この言い方は正しいのかどうなのか。てんやわんやの大騒ぎ。非日常がめっきり弱いんだ。その上、長女まで帰省していたので、布団が足りなくて一組買ってきた。もう大騒ぎ。
そんな先週の土曜日に高校の同窓会の幹事会の新年会を夜来香で。11名参加。
もう心はそれどころではなかったんだ。家出る時には「ええなあ、一人だけ出かけて・・・」という正論を同居している人から言われる。これはお約束のことだから仕方ない。先に決まっていたんだから当然行くに決まっているが、当然きまり悪そうなそぶりで出かける。
同級生といっても当時のぼくのポジションは「置き物」状態。存在感ほぼなしのカテゴリーに属していたから全くの少数派だった。他のメンバーは高校当時しゃべったことがない連中ばかりが。そういう連中といろんな話をした。45年もたつのにこうやって会えることが楽しい、そして切ない。もうみんなお年寄りになってしまったことが切ない。あの頃に帰りたくても絶対に帰れないという冷徹な事実が痛い。
何かのきっかけでぼくの髪の毛が「黒いから羨ましい」と誰かが言う。
他の参加者に比べると白髪は少ない。
それだけのことだが、こういう考え方って我々の人生をずっと支配しているんだと改めて思った。
こういう髪の毛とか身長とか視力とか顔とかって自分の努力で勝ち取ったものではない。もう完全に遺伝だ。生まれた時からDNA情報に組み込まれていたことで、選びようのないそういうものを無条件で引き受けて生まれてきた。その上、生まれ落ちた出自や親や環境や時代や地域なんかも、もう「いやや」と言ってもどうしようもないことなんだ。無条件で「わかりました。引き受けます」と潔くそういう属性を自分の一部として承認しないと生きてゆけない。それは自分という魂がヤドカリの住み家としての貝殻を探してその貝殻も自分の一部です、と言っているのに似ている。「自分」の核は見えない魂だけでそのほかの見える部分はすべて属性、飾り物・・・それらは自分であって、本当は自分ではない。世を忍ぶ仮の姿だ。
人を好きになるって、そのほとんどはヤドカリの殻を好きになっているようなもんなんだろうな。本当の自分はそんなところにはいません。目には見えないものだけが自分です。
見えるものなんでたかだか知れている。虚飾だ、と言い切ってもいい。
見えない本質をいつも見ようとしないと上辺だけのあぶくを好きになったりする。
中島みゆきの「あした」がいい。
♪イヤリングを外してきれいじゃなくなっても まだあたしのことを見失ってしまわないでね。
フリルのシャツを脱いでやせっぽちになっても まだあたしのことを見失ってしまわないでね・・・♫
全ての属性を取り払った自分を見て欲しい。その上で好きでいて欲しい…中島さんはそう言う。
性格が好きなら何の文句もないが、「可愛い」とか「スタイルがいい」とか「育ちがいい」とかで人を「好き」になってはいけない。自由だ、と言うかもしれないがそれは違う。
美人タレントが大金持ちと結婚するのを見るたびにこいつは人間が腐っている、と僕は確信する。きっと間違ってはいない。
ね、今日もなにが言いたいのかよくわからないでしょ。それでも気持ちいいから良しとしよう。