これは俗にいう「自動書記」の様な状態です。
別に不思議なことはありません。但し書く内容はもちろん、僕自身がアクセスできるまだまだ小さな情報場やゲシュタルトに制限されますが。(照;)
自動書記の状態とは、シンプルに分かりやすい抽象度で言い変えてみれば、深い変性意識状態であるという事です。
まさワークスの言葉で言えば、思考を巡らすとタイピングし始める気功技術アバターです。
僕がこっそり付けている名前は「アバターモーム」です。
(因みに、いつだったかどこかで読んだ記事で作家のモームはラッフルズホテルにステイしていた事があるそうです。僕もいつかシンガポールのラッフルズホテルに泊まりたいなと思っています。)
固定された自我を「ない(無我ではなく非我)」ものとして、或いは自我を「点(であり全て)」であると観ることが出来ると言うことは、自我を自我関数という抽象度で観ることが出来るということであり、又これが森羅万象を関数として観ることと同義である。
須く「観ること」という意味は、体感を伴うものであることは言わずもがなであると理解しています。
僕のイメージとしては自我という点が浮遊していて、自分の身体や心と言うべき点や他者という他の浮遊している点との間に関係性が構築されている。
ある時、と言うのか必要に駆られた時、自分自身の身体と何か自我の中心点のような座標がズレた感覚があって、ふと観える(観えた気がする)瞬間があります。
すると身体も心も書き換わります。
その時々の課題やゴールなどの様々な重要性の違いによって、それらの点や線が構築する雲の様なゲシュタルトが、モヤモヤとしたイメージで様々な関係性のゲシュタルトとが呼応した様に(或いは無関係の様にも見えるのですが)ダイナミックに動いている、(しかも!それらが)フラクタルに重なったような風景がボンヤリと観えてくるのです。
言葉って難しいです。というか、僕の説明能力が足りないのですが(笑。言葉の不自由さを呪う前に呪うべきは自分のIQです。)
気功技術とはこの関数が幾重にも重なった雲の様なものというイメージで僕は操作をしています。
視覚化と言い切れる様なものではなく、どちらかと言うと共感覚的な視覚化です。見え方はそれぞれなのだと思います。
アバターもまた様々な概念やアルゴリズムが関係性を結んで人格化させたものと理解しています。
logosという僕にとっては新しくて、まだまだ高くて恐らくは永遠に理解など出来ないと思われる様な様な世界を前にある種の戸惑いもありながら、その世界に出来るだけ近づいて参りたいと思います。
僕はこの数ヶ月という毎日は、何も見えない中でひたすら聞こえる音という音をechoさせています。
logosを探求する旅は楽しいです。
遥か遠いゴールを更新しつつ淡々と見続けながら、あまりにも意外で突拍子もない「神の声」に耳を澄ませ、或いは『醜くても愛すべきモンスターの様な自我の衝動』にも身を任せつつ、logosを丁寧になぞっています。
ファイナンスの為のアバターを開発しているというタイトルの記事でしたが、全く違った内容になってしまいましたが、また別の機会に書こうと思います。(多分)
大きなそして小さな間違いを犯しつつ、修正をしつつも大胆にゴールへ向かって進みたいと思います。
まさ(^L^)logos!