《洗脳と自爆テロ》

正しさを訴えるために、

自らの命を投げ出し放棄できる正義。

誰にとって、
何にとって

正しいと言えるのだろうか。

見方を変えると、

同じ立場、状況も
真逆に見えて解釈できてしまう。

はてさて、

第二次大戦戦時中の
「特攻隊」「回天」という戦術は、
自爆テロと言えてしまうのだろうか。
新たな相続税に対する対策って何のため?

皆さんそんなに税金を納めたくないのでしょうか。

憲法第30条の納税の義務をお忘れなのでしょうか。
護憲を唱えるなら、この条項も大事にしなければね!

もちろん、納めた税金がちゃんと使われているのか疑わしい政府に対する疑義が有るのは当然ですが…

しかし、国家は国民の納税による歳入、財源に依って成り立っていることは、現実です。

はてさて、所謂、オレオレ詐欺に詐欺られて、タンス預金が剥奪されるくらいなら、自分の子どものことだけ考えているより、社会の宝としての次世代の子どもたちに国の借金を押し付けるのではない、制度や税制、税政、システムに積極的に視点を注ぎ、チェックの上での賛同の輪を拡げて行くことが、国民としての義務ではないかしら!
確かに、「公職選挙法」は、いろいろな課題を抱える、現行法である。

だからといって、無視して良いという理屈は成り立たない。

議会議員は、法律を制定する立法府に席を置く。

順法(遵法)意識の低い政党が、
法の最高位に在る憲法の
それもまた、
第9条のみの護憲を主張することで、
正義を主張しているとは、
不思議なことだ。
入試の基軸を示すなら、

その基軸に基づき

「試験内容を作成する方々」、

「評価する方々」がナニモノなのか?

という事柄に対する基軸の呈示と公開性こそ、

重要問題だ!
レストランにて

私は一人で食事をしています。

一つおいたお隣では、賑やかにお二人のご婦人が会話されています。

私にも会話の内容が解る程の声の大きさ。

はてさて…

多くの公衆の面前では掻き消される様な声ですが、し~とした店内では聴こえてしまう会話。

たまたま、携帯にかかって来た電話にて、やむを得ずの声を潜めての会話。
自分たちの声の大きさを棚にあげて、煩いとの小言。

確かに、携帯でのやたらの会話は問題ですが、同じくらいの声の大きさでも、対人間なら許されて、携帯で話をしていると煩いと思う感覚って、不思議ですね。
解散選挙の風は不謹慎だ!

アベノミクス改革が道半ばであるにも関わらず、判断が否定的な政権内部は、まるで小泉改革の大英断をミスミスしくじった二の舞選挙の様だ゛(`ヘ´#)
買い物の仕方を観察していると、人としての自立度が判る。

コンビニは、自分の買いたい品物を持参して、支払いの為にレジに並ぶというシステムになっている。

これは、買い物の仕方に限らず、心理的満足を得る為に、サービスを得たいと行動する時、比較的大抵の人々が、「並ぶ」行動を整然と選択している。

それは、ディズニーランドであろうと、評判のラーメン屋であろうと、整然と並ぶ。

先ず、このレジに並ぶという動作を観察していると、面白いことがある。

そもそも、大抵の国民は、ある目的を叶えようとする時に、「並んで何かを待つ」ということに、ある秩序と、無抵抗な感覚を持ってこなしていると感じる。

続く…
自動ドアが当たり前のコンビニに、出入口が引き戸のところがある。

引き戸は、『横文化』である。

たぶんこれは、江戸時代を盛りとした文化であろう。

家庭生活の日常での「扉」なる「ドア」が普及したのは、第二次世界大戦以後で、この「ドア」なるものは、前後の『縦文化』である。

今や現代人、取り分け次世代の子ども達は、この『横文化』に触れることが殆ど無いであろう。
成長した高校生が象徴的である。

『横文化』の微妙な力加減、相手の力を巧みに使う柔道の様な、『力任せでは無い対象物との対峙の方策』が衰退している危機感を、痛感する。

私の知るコンビニで観察をしていると、

先ず入店の際、
標示の矢印を確認せず、(ここに於いても、物事との対峙への注意力・観察力の衰退、欠落、生物的退化が伺える)
いきなり「押す」という前後運動(縦行動)に依る思いっきり取手のノブ棒を押し引きしながら開けようとする行為の延長線で、
ノブ棒をガタガタ揺すって開けようとしている。

これが実は、扉を開き難くしている。

買いもの終了後、時間に追われて店から出る時に、焦っているほど反って時間がかかってしまう顛末を垣間見る。

ユックリ横にすう~っと動かせば(引けば)、すんなり出入口は開いてくれるのである。

現代人の『力任せに、物事を押し引きする強引さ』の発端は、こんなところから醸成されているのではないだろうか。

『ドア』という、西洋式近代文化の蔓延が、『人類の傲慢さ』を増長して来たのではないかと感ずる昨今だ。
我が国の「集団的自衛権」問題は、揺れ動く大国アメリカの、世界の警察官の役目から身を引こうとしている、引かざるを得ない現状と世界観を考慮しての議論をしているのか、見極めなくてはならない。

大丈夫かしら(..)

我が国の舵取り人達は…

そうそう…

私たち国民も、依存体質、依存構造から脱却する、自立性(自律性)を、醸成しなくては!

泥船に乗っているネズミの様に、危機管理が出来ているのだろうか…
「集団的自衛権」議論で、「自衛隊員の安全とリスク」が語られますが、あの3.11からの被災者救済活動の一環としてあった、原子炉への放水活動等を自衛隊員に担わせた国民であったことを前提に議論しているのか、検証する必要が有ります。

これは、自衛隊員に限らず、警察官、消防士等にも関わる内容ではないだろうか。

PKOで派遣される、総ての公務者への議論視点が加味されているのか疑問です。

国民にとって、飛び付きやすい目先の視点提示しか行わないメディアこそ、煽動疑念とジャーナリズムの質への疑問対象者である。