ベテルギウス…オリオン・ミッションNO334 | ヘミシンクピンポンパン

ヘミシンクピンポンパン

ヘミシンクと幽体離脱体験記

ヘミシンクランキング
ヘミシンクランキング

 

 

しかし彼にはそれができなかった。この戦いによって自分たちの愚かさ、醜さに気づいたのだ。地球上で支配者であったはずのかっこいい白人と、アジアの不細工で不格好なサルでしかない日本人が、鉄格子を挟んで立場が入れ替わってしまったのだから。

(続く)

 

《オリオン・ミッション…ベテルギウスNO334》

そんな程度で神に選ばれた白人たちは、それまで居座っていた支配の座から引きずり降ろされ、今もなおコロコロ転がる石のように転落し続けている。科学も技術も軍事も政治も経済も資源もかつての奴隷たちの国の援助と、ほどこしなしにはやっていけない。

 

その当時の白人たちの傲慢さが、どれほどまでに凄まじいものだったかを、彼のこの二つの作品から知ることができる。猿の惑星で中心人物として配置されているシーザーは、新しい地球の救世主として描かれている。シーザーは創世記を切り拓くジーザスでもあるのかもしれない。

 

サルどもに檻にぶち込まれ、裁かれ、飼育されるという、ピエール・ブールの味わった屈辱の戦争体験は舞台を遥かな宇宙、オリオン座のベテルギウスへと移し《猿の惑星》となって昇華されたのだ。彼が無数の天空の中から何故オリオンを選んだのか、今となっては永遠の謎だ。

 

私にとってそれこそが最大の関心事なのだが、原作にその説明はない。《どうせ行くならうんと遠くに行ってみたかった》。光速に極限まで接近できる宇宙船を開発し完成させた、この小説に登場する乗組員たちの動機は、何故それがオリオン座のベテルギウスだったのかの答えにはなっていない。

 

彼の原作が発表されたのは1963年のことだった。あれから61年経った今年も猿の惑星は新作が公開され、相変わらずそこそこヒットしている。第一作目から代りばえのしない物語は、まるで変わらないことに意義があるのだと言わんばかりに、いつもの基本路線を粛々と踏襲している。

 

自意識を失い退化する人類、猿に追われ、狩られ日々逃げ惑うことにしか生きるすべを見いだせない人類、今日と明日と昨日の区別もつかなくなってしまった人類、餌を求め森をさまよい歩く動物人間へと堕ちた人類。彼らは全て白人として描かれている。

 

この作品はピエール・ブールの猿どもに対する怨念ではない。復讐でもない。支配と略奪を終わらせなければならないという諦めなのだ。列強の植民地運営と搾取と虐殺を終わらせ、現代という戦後世界をつくったのは志那でもロシアでも中近東でもない。日本人…猿だった。

 

60年以上に渡って制作され、おそらくこれからもまだまだ新作が発表されそうなこの映画は、サルが人類という白人を駆逐し、新しい地球を創造するという、ピエール・ブールにとっては、悪夢としか言いようのない筋書きが延々と続いていく。そこでは猿こそがヒーローなのだ。

(続く)

マサト