彼は、病院の静かな廊下を一人歩いていた。昼休憩のわずかな時間、冷たいジュースを飲むことを楽しみにしているのが、いつもの小さな楽しみだった。自販機が置かれたロビーに近づくと、手に握りしめた小銭が軽くカチャカチャと音を立てた。

彼のポケットには、ジュース一本を買う余裕くらいの経済力はあった。フリーターとして、長時間の立ち仕事をこなす彼にとって、それはささやかなご褒美でもある。だが、目の前にそびえる自販機の前で彼はふと立ち止まった。

「今日だけ、今日がんばり始めたものにだけ明日が来るんだ…」

あの班長の言葉が頭の中に響いた。彼の心の中には、病院勤務の現実が重くのしかかっていた。自分の血圧が上がり気味だと医者から指摘されたばかりだった。病院に運ばれてくる患者たちの顔が一瞬、脳裏をかすめる。心筋梗塞で倒れた人、高血糖で苦しむ人、そのすべてが他人事のように思えなかった。

彼もいつか、そうなるのかもしれない。いや、なるかもしれないどころか、その道を進みかけているのだ。缶ジュース一本、わずか数十円の投資で得られる甘い満足感と引き換えに、健康の犠牲を払うのか。

「今だけなら、いいだろう」と思った瞬間、再び班長の声が脳内で響いた。

「今日だけ、今日頑張り始めたものにだけ、明日が来るんだ」

それは、自分に向けた警告のように聞こえた。目先の快楽に流されては、未来を切り開けない。彼はこれまで、その言葉を逆境の時にしか思い出さなかった。賭けの局面や、仕事でどうしようもなく辛い時。しかし今、健康という見えない賭けに直面している自分がいた。

彼はそっと、小銭をポケットに戻した。自販機の前を通り過ぎ、控えめな水道の蛇口をひねる。冷たい水がコップに満たされ、彼は一息に飲み干した。

「今日だけ、今日頑張ってみるか…」

その決断は、わずかな一瞬の勝負だったが、その一歩が彼にとっての未来を切り開く最初の一歩だったかもしれない。

彼は静かに笑みを浮かべ、病院の長い廊下を再び歩き出した。