その生涯や研究について詳しく知っているわけではありません。
ホーキング博士がプレゼンターを務めた宇宙についての番組を観ていた時に、自身について語った言葉に
「肉体は不自由でも頭は自由だ」といった言葉があって、比べるなどはもちろんおこがましいのですが、もともと体力が無かったり、当時あんまり動けなくなっていた私にはとても印象に残りました。
歴史に名前が残るような知性を持った人が、自身の肉体をコントロールできなくなっていく病にかかるなんて、どれほどの葛藤があったのだろうかと思います。
たくさんの言葉を残していますが、その中に
「私は幸運だ。なぜなら脳は筋肉でできていないから。」というものがあります。
肉体を移動させる事はできなくても、考えはどこへでも、距離も空間も時間すらもやすやすと超えることができるのです。
理論物理学者だった事も、幸していたのかもしれません。
晩年の、「ブラックホールに吸い込まれても、再構築されて出てくることができる」理論は魅力的です。
もちろん、「再構築」って言っても常人のイメージするものとはかけはなれていますが。
本来の人の死は、「冥福を祈る」、「安らかに眠る」事を生者が望むのかもしれません。
ですが、私のホーキング博士の逝去に対するイメージは「肉体の軛から解き放たれて、望む宇宙の真理を探究する旅をより自由に始められたのじゃないかな」というものなのです。
ホーキング博士にとって、「生涯」や「死」や、「始まり」や「終わり」の概念は、単純に真っ直ぐな数直線ではなかったのじゃないかと。
ホーキング博士に限りませんが、人生の、自らの情熱の全てを捧げられるものに出会うことができた人を羨ましくおもいます。
教育家の新島襄の言葉です。
「男子一戦して止む勿れ、再戦して止む勿れ、 三戦して止む勿れ、 刃折れ矢尽きても止む勿れ、 骨砕け血尽きてのみ止むべきなり」
今時男子に限りらないとはおもいますが、好きですねぇ。闇雲な再戦を称揚しいる訳ではなく、1戦目がだめだからといって、2戦目だだめとも限らない、その都度条件は刻々と変化して同じ結果とは限らない。
であるならば、“Go for Bloke”
どんな理由を並べ立てても、自分が「やりきった」と認められる事こそが最大の実績なのだとおもいます。