人が人でいられるという事 | 日々是一進一退

日々是一進一退

20年以上接客業に携わってきました。
その前は公務員をちらりと。
接客メインで書こうとしておりましたが、すっかり四方山話になっております。

大昔のJ-PHONEのCMに「人はとにかくよく喋る」というキャッチコピーがありました。

そのCMを見た時、「人は自分のことを知ってほしい!という欲求が、人の事を知りたい!より勝るのか?」などと考えていました。

「聞いて欲しい!知ってほしい!」この欲求はどこから来るのか?(ひたすら自分の事を話し続ける、どんな流れでも自分の話に持っていく「カタラー」という人達と出会うと、完全にエナジー吸われますがガーン)

人は完全な孤独の中で生きて行けるのか?

いろいろ大変で思考を拗らせていた時、家人に「そんな面倒なコトばっかり言うなら、いっそ仙人になればいいじゃん❗️」と言われた事があります。(というか、切れられました。)

なれるんならなりたい。
水墨画の上の方に描かれてる建物に住んで、ひたすら書物を読んで、囲碁を嗜み、詩でも作って森羅万象の答えを模索する求道者として生きて行きたい、俗世なんていいやもう、と。

ですが、実際に全くの独りになってしまったら、自分が自分である、ということは何を根拠にしていけばいいのか?

鏡がなければ自分の姿形もわからない。
鏡を見る自分は、「鏡を見る」という意識的で能動的な動作を起こす時点で、ある種の客観性は失われてしまう。

話しかける人や話しかけてくれる人がいなければ、発話すら怪しくなるかもしれない。
森羅万象の真理を見つけた❗️として、独りである以上それは何をいみするのか?
真である事はどう証明するのか?

動物の様に群れを作らずとも生きて行く事はできそうです。ただ、人は人の中で相対化される事なくしては自己規定できないのではないか?

では、その「周りの人々の理解が得られなかった場合、より深い絶望が待っているのか?」。

あくまでも個人的な意見です。
まず大前提として、深い孤独や絶望を同じ様に理解してもらう事は無理である、という事。
人嫌いでも厭世的な訳でもありません。
残念だけれど、単純に事実だ、ということ。

ですが、孤独の一部、絶望の一部を理解し共感を示してくれる人は必ずいるのです。
ほんの一部でも理解してもらえたなら、それはとても幸せな事である、と思います。

そしてその理解者はずっと疎遠だった人だったり、出会ったばかりの人だったり、期待していた人とは違う事も多々あります。

ほんとうに個人的な経験に基づく意見です。
私はひたすら自分で考え続けます。
なのですぐ辛くなります。
巨大掲示板に救われた事が何度もあります。

人は人と関わらざるを得ない、だけれど、それは身近な人でも、ネットを介したものであっても、どちらもリアルな人間関係であると思います。

なので、自分にとって都合の良いものをその時々に選択してバランスを取っていけば、自分の事を見失わないでいられるのではないだろうかと思っています。

でも、ほんとうに耐えられない時は、独りになる事が心を守る最後の手段であるとも思っています。

とりとめのない長文失礼いたしました汗

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やっぱり、いつも側にいてくれる人がいる、いつも自分の味方でいてくれる、そんな人がいればいいのにって思います。