とあるコンサートのパンフレットのためにブルックナーがなぜこうも版が多いのか調べました。

そもそもブルックナー研究者ではないので、掲載するのは悩みましたが。非常に複雑ですべてを網羅させるとそれは1つの本が出来上がるくらいの込み入った経緯があり、ブログの1コーナーとしてまとめるのはかなり難しい!

 

残念なことにブルックナーは作曲が上手ではなかった…

こう書くとブルックナーファンを敵に回しかねないのですが、やはり同時代の対抗馬ブラームスや歴史的天才児モーツァルトのように、一度でビシッと曲をまとめ上げ、一音の隙もなくこの音以外に選択肢はないと思わせるような、つまり、完璧な作品に仕上げる力はなかったようです。

 

ブルックナーのいわゆる版問題の歴史は、大きくは作曲家自身の度重なる見直しと死後の国際ブルックナー協会におけるハースやノヴァークの改定等に起因します。ブルックナーは、一旦は作品を完成させますが、その後、1年後とか数年後、10年後…と自分のスコアをみては、周囲のダメ出しと自己点検により問題個所を直す癖がありました。

そもそも、版の違いといえば、モーツァルトにもベートーヴェンにも出版社の編集者の見直しによる違いなどがあります。しかし、スタッカートやスラーのアーティキュレーションの違いどころではなく、ブルックナーの場合には100小節以上もごっそりなくなったり、旋律を吹く楽器が変わったり、ひどい時は楽章そのものがまったく別の曲にすり替わります(交響曲第4番3楽章)。

 

もう一つ、ころころ書き換えられた背景には、ブルックナーの交響曲が当時の聴衆、演奏者、指揮者には理解しがたいものであったといえます。

彼の思い描く音楽はその当時の音楽家(作曲家、演奏家)や聴衆には奇異に聞こえ、最大の敵であった批評家ハンスリックは、交響曲第7番を「鉛のような退屈と熱に浮かされた過度な刺激」と評しました。よく作曲家の伝記に登場するハンスリック像は、悪役に仕立て上げられる傾向にありますが、ブルックナーの作品への批評は当時の音楽界の状況を考えれば残念ながら的を射た批評とも言えます。

# 個人的感想としては、冷静にスコアを眺め聞いてみると、当時の他の巨匠に比べ構成力というかクライマックスの書き方というか、展開のドラマチックさというか、、、一言でいうと「冗長」という感じが否めないです。アントン先生!またそこに戻るのですか!?とか、まだこのトランジション続けるのですか?というか、そもそもこれ要ります?という感じです。

 

その端緒ともいえる例ですが、ウィーンで成功裏に初演を収めたといわれる交響曲第2番(1872年稿)ですが、ウィーン・フィルにより1872年10月に試演された時には指揮者デソフに長すぎるといわれ、しぶしぶ短縮して翌1873年に初演に至りました。しかし、この1872年稿(第1稿)は、ウィーン・フィルによる1876年の再演時に、今度は指揮者ヘルベックの「聴衆に受け入れられるようにすべき」との説得により大幅に改定されています。そして、幾つかの自己による「見直し」があって1877年に第2稿として出版されました。都合、本人により4度も変わり、さらにハースによる切り貼り編曲版、ノヴァークの新全集、そして、アメリカの音楽学者キャラガンが聖フローリアン修道院の彼の棺から見つけた譜面から起こした1991年の版(アイヒホルン/リンツ・ブルックナー管弦楽団)等と、結局、未出版も含めいくつもの版があり混乱を極めた交響曲となっています。

 

なぜ、これだけ改変を許してしまうのか?
上述のようにブルックナーの作品の完成度が低いということでもあるのですが、ただ、結局演奏されずにたらいまわしや放置されることもしょっちゅうだったため、なかなか自分の交響曲が演奏してもらえなかったが故の、ブルックナーの気の弱さもあったと考えられます。
例えば、交響曲第4番「ロマンティック」は1874年に第1稿が書きあがりましたが、1876年ベルリンの批評家タッペルトにスコアを送るも結局放置され日の目を見ることなくお蔵入りになり、1881年にやっと第2稿として書き直したものが初演されます。

また、第8番の交響曲にいたっては、1887年の第1稿はミュンヘンの宮廷楽長レーヴィにスコアを送るも演奏不可能と言われ、ヴァインガルトナーにたらいまわしにされたあげく彼には放置され、結局1890年の第2稿と改定を経て1892年にやっとリヒター/ウィーン・フィルによって演奏されました。
これらのように、指揮者や興業側が「演奏不可能」と判断した理由には、オケの技術的な不可能さではなく(他にも難しい曲や編成の大きい曲はあった)、物理的に長いといってもワーグナーの楽劇に比べればずっと短い。ブルックナーの直後にはマーラーの長大な交響曲が登場している。ということで、この不可能の判断の意味は、聴衆に理解されるかどうか、また彼の作品を演奏することで批評家たちの標的にならないかといった「興業として不可」の意味での拒絶だったと考えられます。

 

さて、ブルックナーの曲に感じられるこだわりや執着性や粘り強さは彼の性格や生涯にも垣間見ることができます。

彼は長年にわたり博士の称号を得ることに固執していました。ここでもあの天敵ハンスリックの妨害にあっています。その結果、名誉博士の授与の話があるという詐欺にもあって高額をだまし取られてしまったというエピソードもあります。また、ウィーンでは長く不遇の時期を過ごしますが、彼はウィーンでは自分の交響曲を演奏させない、というあえてツンとした態度を取ろうと考えたこともあり、あの「天敵」ハンスリックの批評にさらされても世界的な名声の後ろ盾ができれば対抗できると考え、本当はウィーンで演奏してもらいたいけどじっとその時期が来るまで耐えようとタッペルトへの手紙で吐露したこともありました。また、交響曲第3番の初演の大失敗にもめげず、せっせと次の交響曲の創作やこれまでの作品の「点検」をひたむきにずっと続ける姿勢はブルックナーの性格をよく表しているといえます。

 

この様に彼の人生と作品を冷静に眺めてみると、なんとも悩み多き交響曲作曲家像が見えてきます。

今回のブログでは批判的に書いていますが、荘厳なファンファーレや深く美しい弦5部のハーモニーを聴けば、やはりブルックナーサウンドは素晴らしいのは間違いないです。音楽に内在するスピリットや旋律の美しさはロマン派作曲家1,2を争うものがあり、ファンからするとこのじわじわ来るクライマックスや延々と続くくどさも、また彼の人柄を反映しているようで味わい深いといえましょう。