シネマトーク  MINAMATA ‐ミナマタ‐ | マサミのブログ Road to 42.195km

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MINAMATA ‐ミナマタ- @横浜ムービル


1971年、ニューヨークに住むフォトジャーナリストのユージン・スミス(ジョニー・デップ)は、多くの実績を挙げてはいたが全盛期を過ぎて仕事も減り、酒に溺れる日々を送っていた。そんなある日、日系人のアイリーンが彼のスタジオを訪れる。アイリーンは日本の水俣で人々が原因不明の病に倒れていると語り、ユージンに彼らの取材をしてほしいと訴える。当時、熊本県の水俣に工場を構える大企業チッソは、工場排水に含まれる水銀が原因で多くの被害が出ていることを知りながら、15年間も操業を停めていなかった。アイリーンと共に来日し、水俣に腰を据えて被害の実情を撮影するユージン・スミスに対して、チッソは「大金を支払うからネガを渡して帰国しろ」と迫る。水俣はチッソの“企業城下町”であったために、ユージンの活動を快く思わない人々も少なくなかった…

 

 

 

 

 

 

 

 

(これは↑本物のユージン・スミス。ジョニ―・デップは上手に演じています)

 


この映画に関しては「もっと、ここをこうすれば」と思う点はありますが、これはね…こういう作品が制作され、公開されたこと自体に意義があると思います。あとは、ストーリーは事実と相当に違うので、観たい方はとりあえず観て、それからWikipediaでもいいから「本当はこうだった」ということを検索してみてくださることを願います。私はこの映画が事実と違うことをネガティブに考えてはいませんが、「これが事実だったんだ」と、そのまま信じてしまう人がいることを危惧するので。

 

 

 

↑1972年、『LIFE』誌に掲載されたユージン・スミスの有名な作品(ネットからお借りしました)。胎児性患者の上村(かみむら)智子さんと、母親の良子さんの写真は、世界で初めて「公害」をいうものを人々に認識させることになりました。この写真は1998年にアイリーンさんによって公開が「封印」されましたが、映画『MINAMATA』の中ではクライマックスの場面に使われています。絶版になっていた写真集も再出版されました。

なお、智子さんはこの写真を撮影してから6年後の1977年に亡くなっています。母親の良子さんは、「私の身体に溜まった水銀の毒を、この子が全部、吸い取って生まれてくれた。だから、この子は宝子(たからご)です」と語っていたそうです。

 

 

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■私は2019年の1月から2月にかけて、3泊4日で熊本を訪問しました。そのうちの丸1日を使って、水俣を訪れています。その時の記事がこちら。

MY FIRST FOR YOU  3日め | マサミのブログ Road to 42.195km (ameblo.jp)

 

 

■2018年の2月に開かれたユージン・スミスさんの作品展を観に行った時の記事はこちらです。

生誕100年記念 ユージン・スミス写真展 | マサミのブログ Road to 42.195km (ameblo.jp)

 

 

水俣病は、まだ終わっていません。そのことを少しでも多くの人に知ってもらいたいと思っています。