元気な障害者

元気な障害者

2004年発症。当初はうつ病の診断。転院を繰り返し、発症から10年目で初めて双極性障害という言葉を知りました。休職、復職後、2016年3月に定年退職。2017年7月から障害者枠のパート勤務。
2024年には顔面神経麻痺を発症。苦しんでいます。

私と相撲、結びつかないと思いますが、和太鼓、ホッケー、落語に目覚める前の中学生、高校生のころの私は熱烈な相撲好きでした。

そして、大好きだったのが北の富士でした。

 

休場続きの大鵬に代わって頭角を表してきたのが北の富士と玉乃島でした。

二人同時に横綱に昇進。

優勝を争う二人の対戦にいつも胸をドキドキさせながら見ていました。

あんなに心臓がドキドキしたことは未だにありません。

(今、あんなにドキドキしたら、危ないかも)

 

闘いが終わると顔を見合わせて、頷き、互いの健闘を称え合う姿に清々しさを覚えました。

あのころは勝った力士が倒れている相手に手を貸して起こす光景が当たり前でした。

負けた相手も差し出された手を受けて起き上がっていました。

相手に手を差し伸べなくなり、負けたほうも出された手を振り払うようになってしまったのは北の湖あたりからでしょうか。

 

堅実、安定した相撲で常に優勝争いに加わる玉乃島。

ムラがあって強いときと弱いときの差が大きかった北の富士。

「上手つぶし」と呼ばれた上からのしかかるような「上手投げ」で優勝したかと思うと、9勝6敗だったり。

「クンロク横綱」なんて揶揄されていました。

私の性格からしたら、玉乃島を好きになりそうですが、そうではありませんでした。

自由奔放に見えた北の富士に自分にはないものを見ていたのかもしれません。

 

しかし、二人が横綱に昇進して間もなく、玉の海(玉乃島改)が急死してしまいました。

宿舎に着いた車から降りてきた北の富士に訃報が伝えられました。

「え?」という表情で呆然とする北の富士。

浴衣に着替えて記者に囲まれ、ポロポロ流れる涙をタオルでぬぐいながら質問に答える北の富士。

その場所、だったか翌場所、優勝しました。

何かあると発奮して必ず優勝するのも北の富士でした。

玉の海の急逝は最も大きな「何か」だったことでしょう。

 

話が北の富士から離れますが、玉の海が亡くなった翌日。

高校生だった私は教室の黒板の上に黒に囲った玉の海の写真を掲げました。

教室に入ってきて、その写真に気づいた英語の先生。

「これ飾ったのは誰だ!」

静々と手を挙げると

「横綱玉の海が急死した、と英語で言ってみろ」と。

 

外国人力士の先駆け、高見山。

北の富士はこの高見山をとても可愛がっていました。

高見山と前の山という大柄の力士を従えての土俵入りは壮観でした。

私は北の富士の土俵入りが最も美しく力強かったと、今でも思っています。

 

ある場所で勝ち名乗りを受けた高見山が花道を引き上げてきました。

奥で出番を待っていた北の富士の前で大きな体を小さくして北の富士に何か言いました。

多分、「勝ちました」とでも言ったのでしょう。

それまで厳しい顔だった北の富士がニコッと笑って高見山に応えました。

普通、出番を待つ力士に話しかけることはないでしょうし、話しかけられたとしても厳しい顔を崩すことはないでしょう。

北の富士の気さくな人柄と高見山をいかに可愛がっていたかを窺い知ることができ、とても温かい気持ちになりました。

 

巨漢の高見山の押しを受け止めてぶつかり稽古ができる数少ない相手の一人が北の富士でした。

晩年の高見山の力が衰えたのは北の富士が引退して、ぶつかり稽古をする相手がいなくなったから、と言われました。

 

長谷川との睨み合いは「名物」の一つでした。

あるとき、睨み合っている最中に北の富士が吹き出してしまったことがあります。

土俵上で笑ってしまったのです。

 

黒、紺、茶色が当たり前のまわし。

緑色のまわしをつけたのは北の富士が最初でした。

テレビではあまり分からなかった緑色。

蔵前国技館で見た緑色の鮮やかだったこと。

輝いていました。

 

「かばい手」か「つき手」かでもめにもめた貴ノ花との一番。

貴ノ花に軍配をあげた木村庄之助が懸命に自分の判断の正当性を訴え、多分、1時間近くに及んだ土俵上での審判団の協議。

行司差し違えで北の富士の勝ちとなりました。

間もなく庄之助は引退しました。

 

インタビュールームでのインタビューに「頑張ります」「精一杯やるだけっす」としか言わない力士が多い中、北の富士はよく喋りました。

 

北の富士の懸賞を出していた一つは「キャバレー・ウルワシ」。

何本もの「ウルワシ」の懸賞の旗が必ず土俵を回っていました。

今はそういう関係の懸賞は出せなくなっています。

 

髪を解いてザンバラ髪をヘアバンドで止めてハワイの海岸でくつろぐ写真が報じられたことがあります。

力士は大銀杏の形を整えるために頭頂部の髪を剃ると聞いています。

しかし、あのときの北の富士は頭のてっぺんにも髪がありました。

既に引退を決意していたのでしょう。

 

最後の取り組みでは、寄り切られた後で苦笑い。

実況していたNHKのアナウンサー。

「なんということでしょう。横綱が負けて笑顔とは。」

こうでなければならない、と決めてかかっているこのアナウンサーの頭の硬さに腹立たしさを覚えました。

 

数々の北の富士の思い出。

キリがないのでこの辺にしておきます。

記憶だけで書いたので、間違えがあるかもしれませんが、その点はお許しください。

 

 

たくさんの思い出をありがとうございます。

 

安らかにおやすみください。