戊辰戦争後の会津藩処分 | 今、思うこと! 少しだけ深く考える

戊辰戦争後の会津藩処分

こんにちは、 やまぼうし です。


会津藩は戊辰戦争によって、23万石を3万石に削られ、斗南(となみ)藩(現在の青森県)に転封させられました。


読売新聞に、戊辰戦争後の会津藩処分に関して、新政府が寛容であったこと示す文書が続々見つかった、との記事がありました。


「戊辰戦争中の1868年に、会津若松城の籠城戦で奮戦したことで知られる、会津藩主松平容保(かたもり)の義姉・照姫らの処遇を記した文書が近年、相次いで見つかった。過酷な処分を受けた印象の強い会津藩だが、新政府が意外に寛容だったことがうかがえる」

(引用:読売新聞、2013年4月10日文化面)


「文書の一つは、会津城落城から5か月後の1969年2月、新政府の軍務官副知事として軍事部門を統括していた元長州藩士・大村益次郎が、会津の状況を知らせてきた側近に返した手紙。昨年になって、照姫のことが“若狭叔母”という表記で書かれていることが判明した」

(注:ちなみに“若狭叔母”とは、照姫が、松平容保の養子となった喜徳(のぶのり-従四位下侍従若狭守-)の叔母であったための呼び方のようです)


「照姫は1か月に及ぶ籠城戦でNHK大河ドラマ“八重の桜”の主人公の新島八重ら、家臣の家族の女性らを指揮し、負傷者の看護などにあたったとされる。敗戦後は江戸の紀州藩邸に護送され、後に実家に帰された」

(以上引用:読売新聞、2013年4月10日文化面)


大村益次郎は、照姫の護送の準備を進めるよう、側近に手紙で指示しました。照姫の護送は1969年2~3月に行われ、医師2人を含む護衛役など18人、奥女中が22人と随行が手厚く認められました。朝敵とはいえ、私欲のために抵抗したわけではないとして、大村は元々、会津藩には同情的だったようです。


これまた、大村益次郎の偏屈だが人間的な一面を表していて、興味深く読んだ次第です。


(過去の会津藩関連記事、「会津人のこと(人物を出さなかった藩)」は、こちら

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