大村益次郎と上野公園 | 今、思うこと! 少しだけ深く考える

大村益次郎と上野公園

こんにちは、 やまぼうし です。


週に2日ほど、上野松坂屋近くの会社を訪問します。


松坂屋方面から見た上野公園は、その昔に参道から寛永寺を望む位置にあり、いつもここに立つと幕末の大村益次郎を思い出します。


上野公園は、徳川家光が江戸城の鬼門を封じるために建てた東叡山寛永寺の敷地跡にあり、江戸の最盛期は現在の上野公園の2倍の敷地がありました。


慶応4年(1868年)5月15日未明、大村益次郎率いる官軍は寛永寺にたてこもる彰義隊を包囲していました。


当時、江戸の官軍の兵力は彰義隊の10倍の兵力をもっていました。官軍の総参謀である大村益次郎は、彰義隊がゲリラ化し市街戦がおこり江戸市民が戦火に追われることを苦慮していましたが、幸い彰義隊が籠城方式をとったためこの心配はなくなりました。


大村は、彰義隊を一挙につぶすには砲力がいるとし、肥前佐賀藩がもっていたアームストロング砲2門を本郷台にある加賀藩邸(現東大構内)にすえました。この砲を所有していた佐賀藩は当時日本第一の工業藩であり、もっとも新鋭な洋式兵器で装備された藩でしたが、この威力猛烈すぎる砲を内乱に用いることは「日本人として好ましくない」として藩侯鍋島閑叟直正は当初その使用に賛同しませんでした。


上野戦争と呼ばれたこの戦いは、午前7時頃に始まり、午後1時前にアームストング砲が火を噴き、夕方には戦いが終結しています。


時は経って大村益次郎の死後、大村自身の手で描かれた江戸の地図が発見されました。そこに描かれいた絵入りメモはいかにして火事をおこさずに彰義隊を打うつかということについて彼の思考過程の一端があらわれたものであったそうです。


幕末最大の兵学家は戦において、いかに人を殺すかではなく、いかに人を殺さずに戦に勝つかを考えていました。


春になれば桜が咲き誇る上野公園で、143年前の初夏、時代を変える戦があったことを覚えておきたいと思います。


(一部引用:司馬遼太郎「司馬遼太郎が考えたこと」)