会津人のこと(人物を出さなかった藩) | 今、思うこと! 少しだけ深く考える

会津人のこと(人物を出さなかった藩)

こんにちは、 やまぼうし です。


歴史の中で、不思議に思っていたことがあります。


あの会津藩が、歴史において「人物」と呼べる人を世に送り出さなかったということです。人物がいなかったわけではありません。人物が出てこなかったということです。


司馬遼太郎は、以下の文章で会津藩をたたえています。

「会津藩というのは江戸期の武士文化の精粋といっていいようなところがある。立藩いらいこの藩ほど藩士教育の充実した藩はなく、その藩秩序が、むしろそれそのものが、美であるといいたいほどに整然としていた」

(引用:司馬遼太郎著『会津-維新こぼれ話』)


しかし、人物は出てきませんでした。それは、会津藩の家格と身分制度によるものだったようです。


「会津藩はその瓦解まで身分関係がやかましく、たとえばやがて仇敵の関係になる長州藩がさかんに下級の人材を政務につかせたのにくらべ、登用ということはまずまれであった。

会津藩松平家は、徳川の家格制度では、いわゆる御三家とともに将軍家の一門のあつかいをうけている。このため老中や若年寄になるというふうな幕政に参与することはなかった。幕政に参与するのは徳川家にとって使用人の家-井伊とか酒井とかいう譜代大名-がやることで、「御家門」である会津松平家はそういう番頭・手代の仕事に対してごく貴族的に超然としていればよかった。中央政治についての無経験が江戸期いっぱいつづいたということが、この藩を世間知らずにしていた」

(引用:司馬遼太郎著『ある会津人のこと』)


幕末、大きな時代の流れの中で、会津人はその実直さゆえに、流れに流され、そして取り残され、大きな不幸を背負うことになりました。


それそのものが美であるといわれた藩秩序も、世に出るべき人物を閉じ込めたまま、崩壊していきました。


会津に人物が出なかった理由が、やっとわかりました。