モースが愛した絶景 | 川島正仁の南米体験歌

川島正仁の南米体験歌

川島正仁は、東京オリンピックの年(1964)、高校を卒業し、翌年19歳で南米アルゼンチンに移住します。日本を最後の移民船「アルゼンチナ丸」に乗船し、横浜港の大桟橋から出航しました。その時からの苦しい移民生活を、歌とともに綴ります。

大森貝塚の発見で知られる米国の動物学者エドワード・モースは明治10年(1877年)、生物の標本採集のため日光市の中禅寺湖を訪ねた。2万年前,男体山の噴火によってできた湖は標高が1269メートルもある。同行者と交代で山登りの駕籠に担がれて登ってきたが、足の長いモースには窮屈で、途中で駕籠を降りてしまう。それでも「長い,つらい、しかし素晴らしい徒歩旅行」と後に記している。晴れていたのだろう。湖畔に着いて目にしたのが、標高2486メートルの男体山だった。翌朝、モースは山登りも楽しみ、上へ上へ登るにしたがって、中禅寺湖の青い水は木の間から輝き、山々の峰が後から後から見えてくる、と書いている。昆虫や花、樹木については観察したことを客観的に書き留めているのに対し、湖や山に関する記述は美的なのが興味深い。明治初年、中禅寺湖に魅了された外国人はモースだけではない。英国の探検家イザベラ・バード、外交官のアーネスト・サトウなど数多い。特にサトウは全権公使として再来日すると、湖畔に別荘を建築した。その建物を譲り受けた栃木県が2016年に復元、「旧英国大使館別荘」として一般公開している。スタッフの竹内さんは「ここから見る湖は英国の湖水地方の風景に似ているそうで、実際に旅行で来られたイギリスの方からもそう言われます」と話す。別荘2階のソファから湖を望むと、「薩道愛之助」などの名前を使うほど日本を愛したサトウの原点を見る思いがした。

 

上記は、24年8月25日の読売新聞に掲載された記事である。私は40年前以上にスペイン語ガイドとして幾度も日光を訪れたが,何度見てもここの景色は素晴らしい、当時の「いろは坂」は両方通行で坂を上る途中、下りのバスと鉢合わせしたりして、一方が急カーブを曲がりきるまで待機して登ったものだ。「ヘヤピンカーブ」と言われたほどカーブが険しく慣れない運転手は何度もハンドルを切り替えしながら登ったものだ。地元の運転手は慣れたものでそこを一回で登るのでその時は乗客は皆、拍手喝さいをする。そんな光景も今では見られない。この「いろは坂」はしばらくして「片側一方通行」に変わったからだ。坂を上りきって前方を見渡すと「華厳の滝」が展開してくる。そして「中禅寺湖」だ。この右上方に男体山がそびえたつ。不思議なことにとても2500メートルの高山には見えない。それはこの湖の標高がすでに1200メートル以上もあるからだ。そして昼食には湖畔にある金谷レストランでここの湖で取れたヒメマスの塩焼きのごちそうだ。