政治家とは | 川島正仁の南米体験歌

川島正仁の南米体験歌

川島正仁は、東京オリンピックの年(1964)、高校を卒業し、翌年19歳で南米アルゼンチンに移住します。日本を最後の移民船「アルゼンチナ丸」に乗船し、横浜港の大桟橋から出航しました。その時からの苦しい移民生活を、歌とともに綴ります。

今の世の中にこんな政治家がいてくれたら、---1657年、明暦の大火で江戸城の天守閣が焼失した後、政権を主張した老中たちに、正之は「天守閣は遠くを見るだけの代物で、今は町屋の復旧に力を入れるべきだ。そんなことに公金をを使うべきではない」と反対したのです。

現在は皇居となっている江戸城に天守閣が無いのは正之が主張したためです。政治家の責任、かくあるべしと思われます.大火の後,どこで誰がどのように死んでいたかも徹底して調べさせました。多かったのは,火から逃れようと隅田川に入って命を落とした人たちです。当時は敵が攻め込まないよう橋を架けないのが武家の発想でしたが、これを機に正之は両国橋を架けさせました。玉川上水の開削も「敵が攻め込んでくる」という反対論がありましたが,正之は「水不足で苦しむ江戸の人々のために」とゴーサインを出しました.上野広小路、道を広くするなどして江戸を「不燃都市」にしようと作ったものです。「民のために」という正之の姿勢は、口先だけではありません三代将軍・家光の異母弟にあたり、隠し子のように育ったことも影響したのでしょう。正之の存在に気が付いた家光に取り立てられ、信州高遠から山形,会津と転じましたが、その度に年貢の実態を調べて「取りすぎだ」と税率を下げさせています。会津では、90歳以上の全ての人に終生コメを与えるという年金制度のようなものまで作っているのです。そのバックボーンは朱子学にあり、何が起きても右顧佐鞭するようなことはありませんでした。機を見るに敏で、しかも民のために判断ができる。優秀なブレーンたちも正之を支え、武断政治が文治政治へと切り替わっていったのです。彼が作った会津藩家訓には、「わいろ、こびへつらいをするな」「えこひいきをするな」「心のねじ曲がった者を採用するな」「利害で道理を曲げるな」と書かれています。まさに自民党の幹部らに聞かせたいような言葉です。派閥の裏金事件があっても、「知らぬ存ぜぬ」で誰も責任を取ろうとせず、逃げ回っている。今、正之が生きて入れば烈火のごとく怒り、切腹か蟄居謹慎を命じるのではないかと思います。

 

上記の文は、作家の中村彰彦氏が朝日新聞に掲載したものです。本当にこのとうりだと思います。どうして今の世の中にはこころから民のことを考える人物が出てこないか考えさせられます。あまりにも恵まれすぎて、完全に「お金」の奴隷に変貌してしまったのです。