便宜供与 (2) | 川島正仁の南米体験歌

川島正仁の南米体験歌

川島正仁は、東京オリンピックの年(1964)、高校を卒業し、翌年19歳で南米アルゼンチンに移住します。日本を最後の移民船「アルゼンチナ丸」に乗船し、横浜港の大桟橋から出航しました。その時からの苦しい移民生活を、歌とともに綴ります。

そして大使などの高官に対しては、その滞在期間中に1台しか購入できなかったためあえてベンツなどの高級車を買い入れ退任の際転売した。当然何万ドルものプレミアがつく。この理由で大使はほとんどの時は公用車を使用し,自家用車は車庫に保管し、運転手に手入れをさせ転売の際少しでも高く売れるようにした。私は彼らの高級アルバイトの手助けをしていたのだから面白いわけはない。しかしながら私の身分は「オッフィシャル」で「外交官」のように外国車を無税で購入できず、一時輸入は可能だった。前任者はアメリカに返すのが面倒くさいので所有していた60年代後半のファルコンを500ドルで売りつけた。日本にいた時ガイドや添乗員をして蓄えたお金の中からこの金額を支払ったのだ。仕事は実に忙しかった。特に中南米からの外交官(外務省の職員であるが便宜上)が多く、本来は彼らに対してそのような便宜供与は必要ないのだが私の上司は仲間意識が強く、飛行場のミーティングからホテルのチェックイン、翌日はシティから50キロメートル離れたラテンアメリカで最も巨大なピラミッド,テオティオカンの見学、さらに市内見学、考古学博物館の案内までした。当然昼食込みであった。今考えるとこれらの莫大な経費は一体どこから調達していたのだろう。これも大切な国民の血税からか、となると事情を知らなかったからとはいえ、小生も働いていたのだから同罪か、罪の意識はないが。さらに大使は、個人的に付き合いのあった有名人や会社の経営者さえも便宜供与リストに加えた。考えてみると、当時の外交官は皆同じように自分自身の利害関係で大使館を我が物顔に利用していた。従って日本から大臣級の大物が来ると大使館こぞって接待をした。今でも覚えているのは、故岸首相が「人口問題世界会議」に出席のため10人もの国会議員を引き連れてきたときには、私は、彼らの宿泊したメキシコ最上級のホテル「プレシデンテ」に部屋を取り、接待係を務めた。議員たちは、この時を利用して大事なスポンサーやサポーターに感謝状や年賀状を送り、自らの「誠意」をアピールするのであった。私は、住所を書いたり、お茶を運んだり、その手伝いに忙殺した。思い出すのは、外国特に中南米ではチップさえ渡せば領収書を入手するのは実に容易なことであった。このように考えると私たちは、何十年にもさかのぼってこれらの莫大な「無駄」を消費していたのである。真の「民主主義国家日本」を建設するためには、これらの愚かな無駄は一切なくさねばならない。私たち全ての国民の責任である。