便宜供与 | 川島正仁の南米体験歌

川島正仁の南米体験歌

川島正仁は、東京オリンピックの年(1964)、高校を卒業し、翌年19歳で南米アルゼンチンに移住します。日本を最後の移民船「アルゼンチナ丸」に乗船し、横浜港の大桟橋から出航しました。その時からの苦しい移民生活を、歌とともに綴ります。

今からちょうど50年前、1976年から78年までの間の2年間私は海外交流サービス協会(外務省の外郭団体)の派遣員としてメキシコの日本大使館に便宜供与担当官として赴任した。その仕事の内容は名のとうり国会議員、新聞記者、特に中南米の大使館に赴任、帰任する外交官の便宜供与である。メキシコはちょうど中南米と日本を結ぶ中継地に位置し、当時はJALの直行便が週3便運航していた。外交官が赴任、帰任する際、どうしてもメキシコ経由となる。当日のフライトコネクションは不可能なのでどうしても2,3泊しなくてはならない。大使館には便宜供与予定表が組まれており、私はそれに従って動くのである。当時便宜供与のほか現地雇いの8人の運転手の手配をするのも大事な仕事だった。その点、私は19歳の時南米アルゼンチンに移住し、7年滞在し独学でスペイン語ヲマスターし、完ぺきに会話ができたので一癖も二癖もある現地人を扱うのにはうってつけだった。今考えればこの理由で私を合格させたのだろう。旨い人事をしたものだ。これ程大変な仕事ではありながら待遇は悪く、特に給料は23万3千円当時のメキシコの通貨はペソで1米ドル25ペソであり、換算すると1000ドルにも足りなかった。本来は外交官というのは、外交官試験に合格したエリートを指すのだが、便宜上外務省から来たすべての職員には外交官パスポートが付与され私用車にも外交官ナンバーが施された。当時のメキシコでは、輸入車に対して200%以上の税金が課せられた上、外交官の特権として米国を含む外国からの乗用車を無税で輸入できた。さらにその時から半年を経過すると売ることが出来たのである。この点に着目した業者は、このアメリカ製中古車をメキシコの金持ちに売るのである。ゆえに2万ドルで輸入した車を半年使い、その車はなんと2万5千ドル以上で販売することが出きた。さらに驚いたことは、この時点でもう1台購入し、それを帰任するときに譲ることが出来たのである。この不思議なことが可能だったのは、この国の車の事情に依った。当時メキシコには、日産を始めフォードやその他の外国からの工場もあったがここで生産された車の性能は極めて粗雑であった。おそらく部品は現地で生産されるため外国車の品質には至らなかった.ゆえに金持ちはこぞって米国からの中古車を高い金を支払ってまで購入したのです。