不遜な考え | まーちゃんのブログ

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誰かに読んでもらうつもりで書くと、自分の考えがよくまとまってすっきりするので、このブログを始めました。

 

不遜な考え

 

 

 

もし神様がいるとしたら、万能の神がいるとしたら、世界は変える必要がない。万能の神は何でもできるから、今この時を完璧な幸せで満たしているはずです。今この時が完璧ではないと思えるとしたら、それは万能の神が存在しない証拠です。ただ私の感じ方が変わって、世界が完璧な幸せで満たされていると思ったとき、万能の神が存在するということになります。神の存在は私の移り変わる気分によって左右されるのです。おかしなことですが。

 

 

 

ところで私は、神を信じた方が信じないよりも、得で理に適っていて都合がいいように思います。いるかいないか証明できないものは、人の損得で判断する以外にありません。どんなに科学的な精神を持った人でも、人である限り、生きている限り、心のずっと奥底では自分の都合の良い方を選んでいます。そうでなかったら、その人はかなり前に死んでいるはずです。常に「生きる」のに都合の良い方向へ進んでいないと、生物は命を落とします。生命の存続という問題からかなりかけ離れたところにある、神の有無という問題は、どんなに熱心な宗教家にとっても、つまるところ、気分の問題なのです。

 

 

 

敬虔な信者は、命は神によって与えられ、神無くして生きることはできないと言うでしょう。そして心からそう信じています。でもその人が生きているのは、生きるのに都合がいい方を選択しているからです。その人自身の判断による選択がその人に命を与えているのです。そういう意味では、神を信じるというのは一人の信者にとって、生きるのに都合の良い選択だったのかもしれません。

 

 

 

  神の存在を信じるか信じないか、その最初の選択は自分の心が決めるのです。神の存在は自分の心によって左右されるのです。しかも、信じた後も、神の姿は同じ宗教に属している信者にとってさえ様々で、経典を勉強すればするほどその解釈が深まり形を変えていきます。神は存在しないのだからどんなふうに思ってもOKなのです。存在しないものを信じると、こういう矛盾が起こります。もちろん存在しないものを存在すると信じることがそもそも矛盾なのですが。

 

 

 

  それでも私は存在しない神の存在を信じます。さっき言ったように、その方が得で理に適っていて都合がいいからです。なぜ理に適っているかというと、日常生活の場で、精神的にも肉体的にも困難な状況というのは常に起こるからです。毎日がそうです。その時神がいて、すべてOKですよ、それでいいんですよ、何も心配しないで、悲惨な事件や災害が起こっていても、誰も不幸にはなってないんですよ、それどころかみんな最高に幸せなんですから。と耳元でささやいてくれれば、ああそうか、じゃ、私も幸福なんだ、と勘違いできるでしょう。めくら蛇におじず。勘違いしたまま死んで行くことが出来ます。いつか、真実が突きつけられて、究極に苦しい事態が起こっても、神を信じることによって、「ちょっと待てよ、これは素晴らしい経験かもしれない、これで私はもう一つ幸福の種をまいたのかもしれない。」と少しは気がまぎれるでしょう。少なくとも、「だから神なんていやしないんだ、もうおしまいだ、死ぬしかない、私は世界で一番不幸な愚か者だ。」と思うよりましでしょう。

 

  神を信じるという矛盾を受け入れることで、世界の矛盾を完全に消し去ることが出来ます。世界の不条理をゼロにできます。究極の疑問に対する単純な即答を得ることが出来ます。

 

  そして私は神を信じることが出来る「人間」という生き物の能力の高さに驚きます。神を左右するのは先ほど言ったように自分の選択ですから、本当の神は自分だということになります。自分の世界を出て、よその人の世界を見ることはできません。見えたと思っても、自分という概念がある限り、その他人の世界を見ていると思っているのは「自分」ですから、自分の中の他人の世界を見ているだけのことです。他人の世界を見ることが出来ないのであれば、世界は自分の世界しかありません。自分の世界が真実の世界です。その自分が神であるということはこの世の中全体の神は自分だということになります。想像ですが、よその人もその人の世界では神なのです。お互いに神だと思っていてもぶつかりあうことはありません。なぜなら神ですから。何でもできるんですから。矛盾を克服するのなんて簡単です。最初から矛盾を承知で神を信じているんですから。もし神を信じないで、矛盾を抱えたままの自分が他の人の世界と接触したら、苦悩と争い、差別と軽蔑、怒りとねたみが即座に生まれるでしょう。神を信じるというのはそれだけ有効だということです。

 

  もうひとつ言っておきたいことがあります。自分が神なのですから、宗教に頼る必要はありません。宗教に頼っているうちは本当には神を信じていないと言えます。それから、お前が神なら、今すぐ東日本大震災の避難民全員に豪邸を建ててやれ、という考えもあります。非常に言いにくいことですが、非難されるのを覚悟で言いますが、今が一番いい状態なのにその完璧な状態を壊すような豪邸を何万軒も建てることは、私はしません。この完璧な状態が壊れないように人間としてできることをほんの少しするだけです。「人間」のところを「神」と言い換えても構いません。神はほとんど何もしません。なぜなら今が完璧な楽園だからです。

 

  震災で被害には会いましたが、微々たるもので、その後の放射能も原発周辺地域に比べたら、無いも同然です。私が甚大な被害に会われた方々と同じ境遇になったとき、私の世界は崩壊して神は消えるのかもしれません。でも、そうなっても、信じたことで得られる生きる力は大きいだろうと思います。少なくとも、最後まで誠実に生きることが出来ると思います。腐っても神ですから。そういう希望を持てば、自然災害の恐怖に打ち勝って、次の災害の準備がきちんとできるのではないでしょうか。