前進と後退 | まーちゃんのブログ

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誰かに読んでもらうつもりで書くと、自分の考えがよくまとまってすっきりするので、このブログを始めました。

 

前進と後退

 

 

 

人生は、あるいは物事のすべては、前進と後退を繰り返しています。少なくともわれわれ人間にはそう見えます。今、最高に幸福だと思っていても、次の瞬間には絶望の淵に立っているかもしれない。その逆も十分に言えます。

 

 

 

つまり、決して安定はしていないということです。安定とは天国なのか、それとも死なのか。幸福の高みで安定すれば天国、不幸のどん底で安定すれば地獄ということでしょう。そのどちらでもない中間で安定すると、それは死ということになるのでしょうか。いや、死ではなくて生かもしれない。人間の感情を無くしてただ動物として生きるとき、本当の安定が来るのかもしれません。でもそれは、心を無くすということでもあります。心を無くしたとき、初めて本来の生を生きることができるのです。何にも邪魔されず、ただ自分が生き、子孫を繁栄させるという目的に集中できるのです。人間性を失ったとき、生き物として安定した生を獲得できます。

 

 

 

心が邪魔なのです。心があるから、不安になります。幸福と不幸の波は心が作り出します。本当に人間以外の何百万種という生き物と同じように生きたいのなら、心を捨てなければなりません。心はただ生きる、生き残るという目的のためだけにあるのではないように思えます。それは何か別の目的を持っているように思えるのです。だから心は常に前進と後退を繰り返しています。ただ「生きる」という目的のためだけだったら、前進、あるいは後退のみでいいはずです。前進や後退の意味は何なのでしょうか。

 

 

 

人間をやめたければ、心を捨てればいい。でもそれは不可能です。どんなに冷血な人間でも、完全に心を捨て去ることはできません。心、つまり感情は人類にとって特別なものです。そして、人間の社会ではこの感情がすべてを支配していると言ってもいい。すべての仕事が、すべての科学が、すべての国家が、感情で動いています。そしてその感情には波があり、大きく上下しながら時には前進し、時には後退するのです。

 

 

 

前進した分だけ後退しているとしたら、そしてただそれを繰り返しているだけだとしたら、人間は永遠に同じ場所に立っていることになります。不安定な乗り物に乗っているにも関わらず、いつも同じ場所に戻って来てしまう。

 

 

 

その同じ場所とは、どういう場所なのでしょうか。それは全生物の原点であり目的である「生」です。感情に翻弄されて嵐の中をさまよった挙句、人間以外の200万種の生き物と同じ場所、「生きる」という場所に戻って来るのです。「生」から離れるために感情はあり、「生」に戻って来るために感情はあるのです。

 

 

 

では感情なんて無駄じゃないか。そう思いますよね。私は無駄じゃないと思います。無駄どころか、感情によって「生」から逸脱して放浪することが人間の目的なんじゃないかと思うのです。地球上に生命が生まれて40億年、多様性を極めた結果、最後にたどり着いた多様性は「生」から離れて「生」以外の道を模索する旅をすることだったのです。人間はその役目を負い、常に生と死の境を歩きながら感情に導かれて、全く新しい異次元の生を探し求めているのです。それは信仰、芸術、哲学、科学を生み出し、霊、根性、愛、永遠、死、宇宙という観念を作りました。「死んでも生きてやる」なんていう矛盾は人間だけが理解できるものだと思います。その結果、不幸にも自殺が生まれてしまいました。

 

 

 

感情さえなければ世の中の不幸は全部なくなりますが、幸福も消えます。我々は心を一人一個ずつ持ちながら、前進と後退を繰り返して生きるしかないのです。しかし心と感情の本当の目的が異次元の生を求めることだとわかっていれば、どんなにくだらない言い争いや、後悔、嫉妬、強欲、犯罪でさえ、意味があると思えて来るでしょう。そして、喜び、誇り、慈しみ、涙、興奮は、もっと大切なものになります。前進と後退を繰り返しながら、いつの日か、異次元の永遠の生に一歩だけ近づけるかもしれません。70億の心が日夜、前進と後退を繰り返しているのですから。

 

 

 

心には浮き沈みがあり、それは心自体が引き起こすこともあれば、外的な要因で起こることもあります。心自体が引き起こす絶望については、強い心を持てば勝てますが、外的な要因は防げません。もっと強い心を持てばいいわけですが、そんなに強い心持てる人が大勢いるとは思えません。要は外的なものに振り回されなければいいわけです。給料が5万円になろうが500万円になろうが関係ない、と思えればいいわけです。病気でも健康でもどっちでもいい、と思えればいいわけです。得でも損でも、どっちでもいい。幸福でも不幸でもどっちでもいい。そんな風に思える心を持つことは可能でしょうか。

 

 

 

負けるが勝ち、と言うことわざがありますが、不幸は幸福で、貧乏は裕福、病気は健康だと思えばいいわけです。病気になったおかげで会社を休んで入院し、今までの過労と心労に気付き、給与は安いがもっとストレスのない仕事に転職した結果、貧乏だが健康で幸福になった。そう思えればいいんです。つまり、屁理屈だと言われるくらい、物事を捻じ曲げていい方に考える癖をつければいいのです。

 

 

 

人生は、あるいは物事のすべては、前進と後退を繰り返しています。前進しているときはいいのですが後退したとき、絶望しないために、前向きな屁理屈を言えるようになりましょう。だって結局、後退は人が「生」に戻ることだし、振り子のようにまた前進するための準備でもあるんですから。しかもその振り子運動全体が、人間の生きる目的なのですから。

 

 

 

ただし、これは一時しのぎに過ぎません。なぜなら、幸福を求める心と、不幸が幸福であると屁理屈を言う心は、どちらも同じ方向、つまり幸福になりたいという、幸福でなければならないという方向を向いているからです。そしてどちらも、未来に幸福を求めています。それは今が幸福ではないことを暗に表しています。

 

 

 

ですから根本的な解決法は2つしかありません。1つは、幸福になりたいと思わない。これは人として不可能ですが。2つ目は、今すでに幸福であると思うことです。未来の幸不幸は考えない。今の幸福を思うことです。お金と愛を失って、事故に会って、病気になって、いじめられているこの今を、幸福の絶頂だと信じることです。

 

 

 

でも、どうすればそんなことを信じられるでしょうか。それが事実だと思えなければ、なかなか信じられません。本当の事実とは何でしょうか。お金と愛を失って、事故に会って、病気になって、いじめられていることです。そしてそのすべてを不幸だと信じたり、幸福だと思ったりする心を我々一人一人が持っているということです。さらにその心は、常に移ろっています。前進と後退を繰り返しています。お金と愛を失って、事故に会って、病気になって、いじめられているとすれば、心は最も後退した状態に近いでしょう。そういう時期に、現実とは逆の方向へ心の振り子が大きく動いたら、人はそれを狂気と呼ぶでしょう。頭がおかしい。ついに壊れたか。そう思うはずです。でも、あなたはそれが怖いのですか。変な奴だと思われることがそんなに怖いのですか。人にどう思われようと、天国のように安らかで幸せな心を常に持てれば、いいじゃないですか。

 

 

 

それはあなたの手元にある、そのスイッチです。それを切り替えるだけで心の振り子は前進のみに切り替わります。現実や事実は容赦なく前進と後退を続けますが、あなたの心は、ただ思うだけで、前進のみになります。不幸は次から次へと訪れます。しかしそのすべてがあなたにとっては幸福になります。あなたは、明日幸福になるのでも、昨日幸福だったのでもなく、今日この瞬間に幸福なのです。

 

 

 

未来のことも過去のことも考えず、今の幸福だけを信じるのは、危険だと思うかもしれません。でもその不安は次のことで一掃できます。

 

 

 

幸福はエネルギーを与え、どんな時でも最善を尽くす根拠になります。それは物理的にも効率を良くして、あなたが経済的に豊かに生活できるようになる可能性を最も高めます。心理的にも幸福の笑顔は最も効率よく人をひきつけ、あなたを社会的に認められた人間にし、みんなから愛されます。富や、愛や、社会的地位が幸福であると信じ、それを未来に求めようと努力することによって、それらを得られなかったことによる不幸の確率は相当高いと思います。それに引き替え、富や、愛、社会的地位を含め、すべての出来事が幸福であり、その幸福は今ここにあると信じれば、いずれ今はない真の意味の富、愛、社会的地位も手に入る確率が最も高くなるのです。

 

 

 

ですからあなたは、安心して今の幸福をかみしめればいいのです。今の幸福を感じればいいのです。自分が生きていて心を持っているだけで、幸せがあなたを満たしている。目を開けてそのことに気付けば、その時からあなたの幸福は過去や未来のものではなく、現在の事実になるのです。

 

 

 

醤油ラーメンに胡椒をかけるとおいしいですよね。でも、胡椒がなくても別に私ならOKです。それが担担麺だったりしたら、もう胡椒はいりません。お金や、愛や、地位は胡椒のようなものだと思います。世間体もそうです。昔は胡椒を巡って殺し合いが起こったり、世間体のために切腹したりしました。確かに人の求めるものが手に入るのと入らないのとでは、生活が大きく変わります。でも幸福という観点から見ると、ほとんど変わりません。全く同じと言ってもいい。

 

 

 

安心して今の幸福を味わう。そしてそれ以外のことは何も思いわずらわない。これが人間の新しい「生」への一歩になるのです。