わたしに才能があれば、私より少し才能がある人をねたむでしょう。私に幸運があれば、私より少しだけ幸運な人をねたむでしょう。私には才能も幸運もお金も愛も必要ありません。必ず私より上の人がいて、私は嫉妬心で不幸に落ちていくからです。
全てを失ったとき、私は石のように幸福になれるのです。
私には命があります。命は誠実ではありません。生きていくためには何でもするのが命だからです。誠実を取るなら命を、命を取るなら誠実を捨てなければなりません。
しかし、人間の社会と文明は、全てを持ちながら幸福になることと、命を豊かにしながら誠実であることを目指して、矛盾の渦の中でぐるぐる回りながら、今も未来へ向かってばく進しています。私はこの果敢な戦いを、全面的に肯定します。社会は、豊かになること、幸福であること、長生きすること、誠実であることを全て同時に実現しようと、人間自身との戦いに明け暮れ、その成果を確実に加速度的にあげています。多くの人がそのあおりを受けて、被害を受け、大声で文句を言っています。どんどん言ってください。それが社会を良くしてきたのです。もっともっと社会の不満を大声で叫ぶべきです。
そして私は、今の社会は素晴らしいと思います。非の打ちどころがないどころか、欠点ばかりですが、それは仕方がありません。もともと、多くを持つなら不幸になれ、誠実でありたかったら死んでしまえというところから始まっているのですから。
人間の幸福と命には、原罪とか業と言われるものが深くかかわっていて、切っても切れないのです。しかしねたみとか不誠実は本当に悪いことなのでしょうか。当たり前のことで、暑さ寒さや、空腹、痛みなどを我慢するように、我慢するのが当然なごく自然なものなのではないでしょうか。夏が暑いことも、夕方はらぺこになることも、ぎっくり腰が痛いことも、当たり前で、しばらく我慢したり、何らかの方法で和らげる工夫をするのが当然なのです。そして人は、そのすべてを何らかの方法で和らげてきました。我々は幸福と命は絶対に捨てません。だから業の方をどうにか和らげなければならないのです。そういうシステムを作らなければならないのです。そして、今、そのシステムは昔より格段に良くなっています。
私は石にならなくても十分幸福を感じられます。しかしもっと幸福になりたいと常に思ってはいるのですが。だから悟りを開くことはないでしょう。悟りを開かなくても一生幸福で生きることができる社会が今、この日本で実現しつつあるからです。
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