東長寺 弘法大師筆千字文と本能寺の変 | OH!江戸パパ

OH!江戸パパ

隠された史実にズームイン!歴史ハンター「大江戸おやG!」のブログです。

 

今回は東長寺に伝わる弘法大師千字文についてお話します。登場人物は博多の豪商、島井宗室、神屋宗湛、織田信長、豊臣秀吉です。現在この千字文は博多駅から大博通りを歩いて10分の位置にある東長寺が所有しています。展示しているわけではいので、特別な時しか見れません。筆者は博多ガイドの会の企画に応募して当選して一度だけ見ました。

 

島井宗室 1539年‐1615年

 

千字文とは中国より伝わる、書の手習い見本として一つとして同じ文字はなく楷書、行書、草書の入り混じった四文字がワンセットで250組で千文字書かれています。弘法大師空海筆千字文は数奇な運命をたどり、島井宗室から東長寺へ預けられます。

 

織田信長 1534年‐1582年

本能寺の変 天正10年6月2日

(1582年6月21日)

 

博多の豪商三傑の内、島井宗室と神屋宗湛は本能寺の変の前日に織田信長の茶会に呼ばれます。信長は現存すれば重要文化財か国宝になるような自慢の茶道具でもてなします。翌朝、明智光秀が織田信長を襲う本能寺の変が起こります。

 

島井宗室はこの時に居間にあった空海の千字文を持ち出し脱出します。また神屋宗湛は牧谿の遠浦帰帆図(えんぽきはんず)を持ち出します。空海筆千字文は島井家の子孫より東長寺に伝わり、牧谿の絵は秀吉から家康に形見分けされ、現在は京都国立博物館に伝わります。

 

本能寺の変までの歩み

1582.1.19 松井友閑書状  信長が島井宗室に自慢の茶器を披露する茶会を堺町衆に通達

1582.1.25   明智光秀の茶会に津田宗及と共に招かれる

1582.4.15   利休・宗及と共に松井友閑の茶会に招かれる

1582.6.1     茶会

1582.6.2     本能寺の変、島井宗室、空海千字文を持って脱出

以上の事で、明智光秀は1582年1月25日には信長の茶会の件は把握していて出席者の目星もついていたと思われます。また状況的に津田宗及は島井宗室に信長の茶会に行くようにアポイントをとったと思います。更には4月15日は松井友閑が臨席しているので最終的な打ち合わせがあったと思われます。この間に明智光秀は茶会の実施日や宿泊場所等、メンバーを密偵を放って調べたのではないでしょうか。

 

 

 

島井宗室と神屋宗湛の手際の良さは事前に本能寺の変が起きるのを知っていたのではないかと疑うほどです。明智光秀が公卿を含め巻き添えにすることで朝敵になるのを恐れて事前に連絡し脱出ルートを作り余裕をもって逃がしたのかもしれません。

 

弘法大師筆千字文

東長寺秘宝

 

こちらが東長寺所有の弘法大師空海筆千字文です。千字文完品ではなく後半の五百文字だけになっています。前半部分はどこにあるのでしょうか?そのうち知らないで所有している人がヤフオクに出品されるかもしれません。国宝でも重要文化財でもなく福岡市の文化財ですらありません。ただこの字は三筆(橘逸勢・嵯峨天皇・空海)と称される空海さんの若書きの書である事は間違いないと思います。

 

804年に出航した遣唐使船4台の内、暴風雨にあい空海乗船の第一船と最澄乗船の第二船だけが唐にたどり着きましたが、空海の船は長安から遠い場所に流れ着き海賊と間違われ拘束される羽目に陥ります。ここで空海さんは代理で達筆な文字で釈明文を提出して難を逃れます。

 

最澄さんが乗船した第二船は菅原道真のおじいさん菅原清公も乗船していたので、乗る船が違えば歴史が大きく変わっていた事でしょう。運が良かったというより天のご加護があったのでしょう。

 

織田信長の側近である松井友閑書状で、わざわざ織田信長が島井宗室の為に茶会を催すことを伝えた招待状が現存しています。信長亡き後の利休の書簡でも秀吉が島井宗室に会いたがっている事を伝えています。

 

島井家の由緒書には空海筆千字文の持ち出しの一件が書かれています。なによりもその現物が東長寺にあるのでこの話は信憑性が高いと思います。東長寺に空海の千字文があるのは筑前国續風土記付録に記されています。元禄年間に当時の住職が島井家に日参して懇願してようやく寄進されたとの事です。

 

松井友閑書状 福岡市博物館蔵

 

海外に通じている博多の貿易商人は、海外にも勢力を伸ばしたい織田信長や後の豊臣秀吉にとっては重要な人物でした。この茶会では島井宗室は信長の一番の賓客でした。おそらくは信長にとってはすでに意のままになる公卿よりも博多商人の島井宗室、神屋宗湛が持っている海外貿易ルートや所蔵する茶道具、楢柴肩衝や博多文林がほしかったのでしょう。この茶会では信長所有の名物茶道具がお披露目され、楢柴肩衝や博多文琳の話題もあったのではないでしょうか。

 

後年に利休を通じて豊臣秀吉が会いたがっている書状もあり、博多復興にも島井宗室と神屋宗湛が関わっています。

 

この楢柴肩衝は薩摩に与する秋月種美(あきづきたねざね)に脅し取られるように安値で買い上げられ、更には九州征伐で秀吉に献上され、更には家康に形見分けされ、明暦の大火で損傷するも修復された後は盗まれたのか紛失しています。これも現存する可能性はゼロではありません。楢柴肩衝もそのうちそうとは知らない人がヤフオクに出すかもしれません。

 

楢柴肩衝

茶道具専門店・墨東清友館の復元品

 

1587年の博多復興は神屋宗湛と島井宗室の尽力と秀吉の海外戦略の思惑が一致したからですが、この後の朝鮮出兵には島井宗室は否定的でした。神屋宗湛は後方支援に尽力します。

 

秀吉がこの世を去り、家康が天下をとると、徳川家康からは冷遇されるようになります。織田・豊臣政権に与し朝鮮出兵にも手を貸した二人には黒田家が福岡に入封する際に財政面で協力しますが、やはり冷遇されて、島井宗室の遺言は「キリシタンと侍だけにはなるな。」でした。

 

 

 

 

 

櫛田神社 博多塀

島井宗室邸

 

博多の貿易力がほしい島津は1585年より北上し大友方の城を次々と陥落させました。しかし翌年、秀吉が大軍を援護に送ると撤退を開始しました。薩摩まで遠征した秀吉は島津義久を降伏させ九州平定が成功しました。
 
 
島井宗室邸 博多塀の断面 1587年頃
中までぎっしり瓦礫がつまっています。
 
1587年に秀吉の九州征伐で九州国分け、博多復興、博多町割では資材も間に合わず、瓦礫を利用して塀を建造しました。博多塀の誕生です。この博多塀は戦国時代の遺産として、福岡大空襲を乗り越えた平和のシンボルとして櫛田神社に移設奉納されました。
 
九州国分けでは小早川隆景が筑前に、立花宗茂が柳川に、黒田孝高が豊前に入ります。しかし伊予に転封となった宇都宮氏は豊前にこだわり出ていきません。その後話し合いや戦でなくあっさり謀殺されます。黒田孝高が宇都宮鎮房に長政と重房の娘の縁談を持ちかけ、中津城に呼び出し祝の席で皆殺しにするという非道な所業でした(諸説あります)。
 
 
JR中津駅から歩いて10分くらいの場所に合元寺と言うお寺があります。壁は赤く塗られていて、赤壁合元寺と呼ばれています。このお寺に待機させられた宇都宮鎮房の家臣達は、皆殺しになりそれ以来血で染まった壁はいくら塗り直しても赤くなったそうです。それ以来壁を赤く塗り、別名赤壁寺と呼ばれています。宇都宮重房はこの誘いに乗るという事は、落としどころを考えていたと思います。黒田官兵衛・長政親子は戦国時代とは言え電光石火に謀殺するとはあまりにもむごい仕打ちです。