龍馬と歩く幕末長崎 亀山社中 修正版 | OH!江戸パパ

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従来の説では亀山社中は坂本龍馬が結成した日本初のカンパニーとして知られ、跡地に亀山社中記念館が建てられています。最近の研究では、坂本龍馬は創設にかかわっていなかった事がわかってきました。薩摩より長崎へ向かわせたグループとは別グラバー商会との銃取引は龍馬が下関で木戸より依頼を受け、亀山社中と顔見知りの者を井上馨と伊藤博文に同行させました。長崎では亀山社中の近藤長次郎(上杉宗次郎)高松太郎(龍馬の甥)がたまたま長﨑にいた小松帯刀と引き合わせ井上薫・伊藤博文が直接会談して長州はグラバーより薩摩名義で銃を購入しています。


神戸海軍操練所では創設者の勝海舟が罷免され翌年1865年3月に操練所自体も廃止されました。ここで海軍塾からあぶれた土佐脱藩浪人を海軍力がほしい薩摩藩が目をつけて坂本龍馬以外の十数名を囲ったのが亀山社中です。この頃の薩摩は長州をつぶすと徳川幕府が独占体制になる事を危惧していました。坂本龍馬には亀山社中とは別に薩摩と長州との交渉の渡りをつける役を与えています。坂本龍馬は桂小五郎と面識があり下関で西郷と木戸の会談をセッティングしましたが西郷にすっぽかされました。

 

 

龍馬の古写真、どこかのお屋敷での会談後に庭で記念に撮ったのでしょうか、左手は負傷しているのか不自然で右手でかばうようにしています、花でも置いていた台か木製のベンチのようなものにかなり窮屈に不自然な姿勢で撮られています、下関かもしれません。

 

 

左から2番目が龍馬の子孫の九代目坂本登さん、龍馬の兄の坂本権平の来孫。その右側の女性は勝海舟の子孫の方(玄孫)で現在はフリーライターの高山みな子さん。

 

 

坂本龍馬の子孫の坂本家九代目、坂本登さんが書いた色紙でかなりの達筆です。惜しむらくは画鋲でとめずに額に入れたいところです。余談ですが坂本龍馬の子孫の方も自由民権家や画家など多彩な顔ぶれです。

 

 

亀山社中の跡の石碑がたち長崎市亀山社中記念館が建っています。当時は「社中」といわれていました。

 

 

亀山社中記念館内部、お龍さんの月琴や龍馬の刀剣はレプリカです。ガイドの方は綾小路きみまろみたいな方でした。


掛け軸は特に何も説明文はありませんでしたが、公文菊僊(くもんきくせん)の絵です、この方は日本画家としてはそれほど有名な方ではありませんが、とりわけ坂本龍馬の絵が得意で、昭和初期から龍馬ブームで同じ図柄の絵を何百枚も書いています。いまだにネットオークションに出品されていて2~3万の安値で落札されています。

 

 

隠し部屋の階段・・

 

亀山社中の隠し部屋

 

 

実物大のタペストリー、172cmあったと言われ当時では大男の部類です。私とほぼ同じ身長です。2015年に撮った写真です、龍馬伝ブームでたくさんの観光客が長崎に訪れていました。当時の解釈としては龍馬が創設メンバーとされていましたが一次資料もなく、当時は別の国事に奔走していて、現在では疑問視されています。

 

 

龍馬の手紙、内容は日本初の新婚旅行と言われている、鹿児島にお龍さんと行ったときに高千穂に登ったときの事が書いてある、高千穂は同じルートで私も登った事があります。

 

片道3時間往復5時間くらいで登れます、私が登ったときはガスが出ていて風景はほとんど見えず火口を見ながら歩く馬の背は幻想的でした。天の坂鉾は実際に今でもありますが抜こうとしても抜けるようなものはありません、私は手を触れようとして近づいただけで足場が崩れ、吹き飛ばされました。おりょうさんも登った事になっていますがたいした女性です。

 

 

 

四境戦争の内の小倉口の戦い、龍馬が戦況を書き記しています。関門海峡、四境戦争の図、自分の乗った船の図(右下)など戦況が描かれている天地は逆で下が下関側、上が門司側、下関側から見た図です、右端の中段あたりのピーナッツみたいな絵が巌流島です、現在は唐戸市場より観光船がでていて気軽に渡れます。上部は布刈明神、現在の布刈(めかり)公園、布刈神社です、その左は田ノ浦方面です。高杉晋作の船は右上のヲテントと書いてある船、龍馬の船は右下あたりの私の船・蒸気と書いてある船です。私の義父の眠っているお墓が門司港にありますが、その時の砲弾で被害を受けたそうです。

 

 

亀山社中のメンバーが使用したかもしれない?井戸、亀山社中の敷地内にあります。

 

 

坂本龍馬をイメージしてブーツを履いて記念写真が撮れるスポット龍馬のぶーつ

 

 

亀山社中跡近くにある坂本龍馬之像、建立日は平成元年5月21日、製作者は長崎市在住の彫刻家、山崎和國氏。

 

周囲には龍馬を写真撮影した上野彦馬の墓や、亀山社中跡など龍馬ゆかりのものが散在しており、寺町通り禅林寺、深崇寺の間から亀山社中跡を経て風頭公園に至る坂道は「龍馬通り」と呼ばれ、長崎市の歴史探訪路となっています。

 

亀山社中記念館・・・亀山社中は薩摩藩の援助のもとに1865年近藤長次郎や高松太郎が中心となり組織されました・・・・この亀山社中記念館は長崎市より復元されて公開されました。亀山社中は薩摩藩と長州の橋渡しを担い、武器や艦船の購入をあっせんするなど薩長連合へとつながる大きな役割を果たしました。

 

 

 

こちらは記念館の龍馬の紋付とブーツのレプリカです。

 社中で当初リーダー的な役割をしたのは近藤長次郎ですが、長州藩と薩摩藩のユニオン号事件にふりまわされたり、最後は小松帯刀やグラバーに援助され一人だけイギリスに密航しようとしました。天候不順で出航が1日遅れ茶屋で遊んでいるところを盟約違反で切腹させられました。なにか仕組まれていた気もしますが記録では立派に切腹した事になっています。


長崎で小松帯刀に伊藤と井上を紹介し武器購入の道筋をつけ、武器を長州に運び毛利敬親に謁見し、礼状を持ち薩摩の島津忠義に謁見し、薩摩から長州へ軍艦購入の交渉役をも担い、薩長同盟の前段階として近藤長次郎は活躍しました。船に乗り生きて海外に渡っていれば、西洋文化を吸収し明治維新後は指導者として日本の歴史を変えていたかもしれません。


坂本龍馬の手帳より近藤長次郎への寸評

術数有余て至誠不足、上杉氏の身を亡ぼす所以なり。

現代の会社組織で言えば上司(薩摩)や取引先(長州)には好かれ成績を上げるが同僚や部下にはスタンドプレイで嫌われるタイプなのでしょうか。