黒田長政は黒田孝高とともに棄教したと伝わります。江戸時代になり禁教令に従い藩内のキリシタンを弾圧しています。実際には謎の多い人物で隠れキリシタンではないかという掛け軸が残っています。
簡単に黒田長政の略歴を言いますと、黒田孝高の嫡男で関ケ原の戦いでは西軍の武将の調略に活躍し、戦本番でも黒田軍は島左近を討ち取る武功をあげている。徳川家康より福岡52万石を賜り幕末まで存続します。
ここで自ら弾圧しているのに隠れキリシタン?の根拠は、長政公が亡くなった後に制作された肖像画にあります。これを書いているのが2022年4月6日です、これ以降でこの説をとられている方はこのページからの二次引用(パクリ)となります。
こちらの肖像画に違和感感じませんでしょうか。
後ろの畳の縁の横線と杖で十字架になり、丁度心臓の当たりでクロスします。
何とも不思議な写真です、古今東西肖像画と言うものは自分を美化して書いてもらいます。しかめっ面で悩んでいるような表情で杖は首を安定させる為かあごで固定しています。よく知られている黒田長政の肖像は一の谷兜を被った騎馬武者姿ですが、これとはまるで違います。この絵は享年54歳で亡くなった後に制作されました。
この肖像画には江月宗玩(こうげつそうがん)の賛があります。
こちらは春屋宗園(しゅんおくそうえん)と黒田長政が描かれています。なんとも奇妙なのは白い犬が足元にいます。黒田長政の両手を組んだ下には衣服に十字の文様が書き込まれています。白い犬が羊で黒田長政が使徒ペテロ、春屋宗園がキリストに見立てだとしたら宗教画となります。キリスト教は秀吉が禁教し更には徳川幕府も早くから禁教しています。黒田長政は棄教しましたが、藩内のキリシタンは弾圧して殉教者も出しています。
父の黒田孝高が荒木村重に監禁された時に寝返ったとされ、秀吉の人質だった長政は織田信長に処刑を命じられます。秀吉は一計を案じ長政は竹中重治に匿われて助けられます。朝鮮出兵では活躍するも石田三成に貶められて秀吉より低い評価を受けます。関ケ原では一番の活躍をしてようやく大藩の大名となります。もし石田三成がもっと黒田長政を評価して恩賞を与え重用すれば結果は逆だったかもしれません。
こちらはオリジナルの長政公の墓石ですが福岡地震により倒壊しました。
改葬された長政公の墓