筑前名所図会 奥村玉蘭
この絵は江戸時代に博多合戦のエピソードを推測した絵です。神前を騎馬のまま通る「乗打」、場所は扁額が裏向きで正面の楼門と鳥居の間と思われます。乗馬のまま櫛田神社の南門から入り楼門で馬が動かなくなったのかもしれません。扁額が石なので南門に入ってすぐの場面かもしれません。いずれにしても博多総鎮守の櫛田神社の境内を馬に乗ったまま楼門から出て鎮西探題をめざしている場面です。
山笠櫛田入りの図、櫛田神社の前は江戸時代は社家町でした、今より道幅は広く平坦な場所だったようです。鎌倉時代は社家町ではなく鎮西探題と道向かいでした。
鎌倉時代は櫛田神社南門を下りたら砂浜で入り江になっていました。菊池武時の軍勢は現在の川端通あたりの浜辺より櫛田神社の北側の道から鎌倉幕府の鎮西探題に攻め込みました。結果は悲劇的で一族全員討ち死にしました。近年地下鉄工事で菊池勢の多数の人骨が発掘されました。以下筑前名所図会より本文を翻刻しました。
元弘三年菊池入道寂阿は後醍醐帝に二心なき御方なりし姪浜に居たりし探題北条英時を討たんとして七万余騎を引率し府の大道を西に向かいて姪浜へとぞ馳行ける櫛田の社を打通る時に軍(いくさ)の凶をや示されけん又乗打(のりうち)をや咎めたまいけん寂阿が馬一足も進まず寂阿大いに怒りいかなる神にてもおわせ一天の君のために戦場に向かう寂阿が乗打を咎めたまう様やある其の儀なれば矢一筋参らせん受けて御覧ぜよとて上さしのかぶら矢を抜き出し神殿の扉を射たりければ矢を放つ
※時代によって中世の勤王家の評価は変わり、大意として江戸時代においては菊池武時が負けたのは神罰のせいだと言わんばかりです。御存じのように明治以降は勤王家の評価が変わり従一位を追贈されます。
川端商店街ですがこの辺りが砂浜でここから菊池勢が鎮西探題に攻め込みました。
写真の左は大乗寺跡(冷泉小学校跡)で現在は中世の港湾施設の護岸が発掘され埋め戻されています。右は櫛田神社。交差点の向こうには北条英時が菊池勢を迎え撃つ鎮西探題がありました。
近年に大乗寺跡(冷泉小学校跡)より発掘された港湾関連遺構。ここでは火薬の原料となる硫黄も発掘されました。一説によりますと元が日本を冊封国にしようと何度もしつこく使者を送ったのは、元の敵対国である南宋に輸出されていた硫黄を元が独占するために文永の役が起こったとも言われています。現在は埋め戻されていて活用方法を検討中だとか、護岸を完全に復元して史跡公園にするのもありかもです。
櫛田神社の北神門、北神門はその頃あったかどうかは分かりませんが、この場所を横目に直進しました。
参考江戸時代の櫛田神社
江戸時代には今の北神門から櫛田会館がある場所には東長寺の塔頭神護寺がありました、六角堂も見えます。北神門の位置には神護寺から出る小さめの門があります。鎌倉時代と右下の大乗寺の道路は変わっていないようです。菊池軍はこの櫛田神社と大乗寺の間の道より進行していきました。
鎌倉時代に鎮西探題がありこの辺りは犬射の馬場と呼ばれ博多合戦では北条英時の軍に菊池勢が討ち取られて首を晒されました。この時は大友、少弐勢は日和見して加勢せず、優勢な鎮西探題に味方しました。数か月後には鎌倉幕府は崩壊します。
さてごく最近この場所で埋蔵物の発掘が始まりました。先の犬射馬場にあたる所になりますので、戦の痕跡や鎮西探題の跡がでるかも知れません。弥生時代、古墳時代、平安、鎌倉、江戸と多分時代毎に多重で遺跡が出るはずです。
発掘現場は狭いですが掘れば掘るほど各時代の遺跡、遺物が出てきそうです。この辺りは砂地のはずです。
それとは別の場所で櫛田神社の表参道にあった古い旅館跡でも発掘調査が始まっています。こちらは面積が大きく、これは鎮西探題の屋敷跡が出てくるのではと思います。日和見していた少弐や大友は足利尊氏が六波羅探題を攻め滅ぼした後に寝返り北条英時を攻めました。
表参道の発掘現場を櫛田神社側から見たアングル。参道沿いのシートで囲っている場所。
「元寇後の城郭都市博多」より
こちらのブログは佐藤鉄太郎氏の「元寇後の城郭都市博多」、福岡教育委員会の配布資料「中世博多の港」、西日本新聞社「筑前名所図会」を参考にしています。











