OH!江戸パパ

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歴史散歩と美術品蒐集が大好きな「大江戸おやG」です。ブックマークの「幕末タイムトラベル!」
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 こちらは以前書いたブログのリニューアルです。高杉晋作の筑前亡命に興味のある方は江島茂逸の「高杉晋作略伝入筑始末」の筑前亡命部分と林元武の「林元武備忘録」を現代語に訳してURLを貼り付けています。引用される方はご自由に使ってください。

 

               

当方が高杉晋作の筑前亡命をまとめました。筑前勤王党林元武(はやしもとむ)の備忘録と江島茂逸の高杉晋作略伝入筑始末を現代語に訳しました。

 

                

こちらは林元武の備忘録全文を翻刻しています。引用はご自由にされてください。福岡総合図書館の2F郷土コーナーに貸出不可ですが原本のコピーがあります。

 

 

【高杉晋作亡命160年ルートマップ】

徒歩約2~3時間(休憩含む)

 

  明治26年発行の江島茂逸の「高杉晋作略伝入筑始末」の筑前亡命の部分を現代語に訳した上で考案した決定版です。私が訳した文書のURLは最後に貼り付けます。

 

  まず高杉晋作が筑前に亡命した理由を簡単に説明しますと、1864年に長州藩は禁門の変で御所を襲撃しました。幕府はその報復として長州に徳川慶勝を総督として征討軍を派遣しました。長州藩内では保守派の俗論派が巻き返して正義派の晋作は危険を感じて中村円太の勧めで船で博多に逃れます。

 第一次長州征伐は長州藩の三家老の切腹と藩主親子の恭順で中止となりました。この中で幕府総督軍や長州を周旋して不戦解兵に導いたのは主に福岡藩の重臣の加藤司書(この時点は家老ではなかった)及び筑前勤王党の月形洗蔵のグループでした。

 解兵の最後のひとつの条件の五卿の幕府への引き渡しは、五卿の九州5藩で分割して引き受ける話で総督府が許可を出しましたが難航して月形グループに任されました。三条実美始め五卿に遷座の説得をし長州藩正義派諸隊や五卿随行に約束を取りつけて筑前への五卿一括での遷座にはクリアしました。高杉晋作は1865年月12日に功山寺にて挙兵して長州藩は徹底恭順の方針を破棄して倒幕路線に向かいます。

第一次長州征伐 元治元年(1864)7月23日~12月27日

高杉晋作 功山寺決起 元治元年12月15日

乙丑の獄 慶応元年(1865)10月23日~25日切腹・斬首の主要などの処分。遠島や禁固は福岡藩が鳥羽伏見の戦いを見て新政府軍に転向するまで続きました。福岡藩は野村望東尼の脱獄により警戒を強め遠島予定だった桝小屋の獄の囚人を福岡城内の南丸や水の手に移しました。

 

  筑前勤王党がこの1864~1865年前半頃まで活躍できたのは一時的に黒田長溥の内乱を防ぎたい思惑と筑前勤皇党の長州の同志を救いたい思惑が一致したからで、その後は高杉晋作が長州に戻り正義派が巻き返して藩論が武備恭順の「待敵」に変更されました。第二次長州征伐の動きがあり福岡藩は幕府より「長州同気」の嫌疑がかけられてついには筑前勤皇党は乙丑の獄で一部を除いて壊滅します。

A4にするとうちわができます。普通サイズの宣伝用うちわを用意します

→A4サイズに合わせて印刷します

→大きめにカットします

→下の部分のカーブはうちわに合わせ鉛筆で線を引きカットします

→糊で貼り付けます

→余分な部分をうちわに合わせてカットします

 

 

 推測ですが月形洗蔵の1500両の使途不明金も五卿の動座の為にだけではなく、長州征討解兵の次のステップの長州藩の待敵から倒幕への藩論変更に使われたのかも知れません。筑前亡命の際には月形は家宝にしていた資治通鑑を質に入れた金を高杉に渡したり、月形の周旋により五卿の遷座が決まった後にも高杉に倒幕のためには安い物と150両渡しています。加藤司書や月形洗蔵主導の筑前勤王党の薩長同盟の草案や五卿の動座、長州征討軍の解兵は乙丑の獄で筑前勤王党は壊滅しましたが高杉晋作を通じて実を結び倒幕につながりました。

 

 

 

1865年8月に坂本龍馬は薩摩藩名義でグラバー商会より武器を購入し長州藩に転売する。ミニエー銃・4300挺ゲベール銃・3000挺。薩摩藩は見返りに長州より兵糧米を受け取る約束だったが国難にある長州から米は受け取れないと固辞します

 

現代では近江屋の事件は龍馬ではなく中岡慎太郎を狙ったものではないかと言われるほどの実力者。筑前勤王党は乙丑の獄で壊滅してしまいましたが、薩長融和から次のステップの薩長同盟は太宰府に集結した五卿の衛士、中岡慎太郎始め諸藩の同志が引き継ぎました。

 

 

 

 

【萬行寺で勤皇商人石蔵卯平のお墓参り】

 萬行寺からスタートします。高杉晋作が博多に船で亡命した際に、対馬藩御用商人「石蔵卯平」が最初に晋作を匿いました。その石蔵卯平のお墓(記念碑)があります。子孫が従五位石倉卯平を顕彰して建立したものですが、このお墓の裏には、石蔵卯平の業績が漢文で書かれています。西郷隆盛・高杉晋作・月形洗蔵・野村望東尼等の名も見えます。裏側には回り込むのは無理ですが、高杉晋作の文字は横から確認できます。場所は分かりにくいのですが、本堂を左回りに入り込んですぐの本堂横にあります。

 
 
お墓の全面には石蔵嘉左衛門家之墓、並んで「贈従五位石蔵卯平忠明之碑」

 

 

【石蔵卯平の墓碑文】一部分 お寺に了解を取り撮影しています。
石蔵卯平が月形洗蔵の密書を京都に滞在している西郷隆盛に届けます。その返書を筑前に運ぶ途中で乙丑の獄を知り帰れなくなりました。筑前勤王党を助け支援する側でしたが、ついには高杉晋作のとりなしもあり長州の奇兵隊に入隊しました。その後は奇兵隊士として活躍しますが天草で暗殺されます。
 

 

 

【妙楽寺で筑前勤皇党のお墓参り】

妙楽寺には筑前勤皇党の鷹取養巴(福岡藩医)の墓があります。残念ながら現在は檀家さんしか中に入れません。また本堂に行き左に回り込んだ場所に、筑前勤皇党の喜多岡勇平の暗殺を黙秘した「伊丹真一郎」と「森勤作」の墓もあります。伊丹真一郎の斬殺された遺骸を見た林元武の回想禄では、桝小屋の獄で、斬首では無く肩口から腰のあたりまで袈裟切りにされ最も無残な処刑をされました。

  江戸時代の豪商の神屋宗湛、密貿易で処刑された伊藤小左衛門、黒田24騎の竹森石見次貞など武将のお墓が軒を並べています。開山堂には幕末の乙丑の獄で相対した佐幕派の次席家老久野将監と、筑前勤王党の幹部格鷹取養巴の墓が仲良く同じ区画にあります。
 

【鷹取養巴の墓】
こちらのお墓の敷地には現在は檀家さんしか入れません。こちらの碑文は幕末研究家の一坂太郎先生のホームページ「春風文庫」で解読されていて詳しく見れます。
 

【節信院で加藤司書のお墓参り】

 節信院には筑前勤皇党の首魁の一人「加藤司書」の墓があります。これは外からある程度は見えていて、木戸をくぐればお墓参り可能です。ロシアのプチャーチンが長崎に来港した時の話や長州征討の時の司書公が活躍した事を説明したパネルもあります。こちらは加藤家の子孫の方が住職をされています。

 加藤家は黒田官兵衛が今のJR伊丹駅周辺にあった有岡城に幽閉されたおりに加藤重徳が牢番となりました。落城後に何かと手助けをした事で加藤重徳の次男一成(かずしげ)は官兵衛の養子になりました。長男の吉成(よししげ)は他家に仕官しましたが後日福岡藩に召し抱えられました。次男の一成は福岡藩筆頭家老の家柄に、長男の吉成は中老の家柄で廃藩まで続きます。

  節信院はご朱印を受け付けてますので運が良ければご当主に会えるかもしれません。

 

【博多百年蔵で歴史パネルを見る】

 博多百年蔵は博多で唯一の造り酒屋です。何が高杉晋作と関係があるのかと言いますと、対馬藩御用商人「石蔵卯平」は酒造業も営んでいました。石蔵卯平は江戸末期に奇兵隊に入り天草で暗殺されますが、現代の百年蔵は明治3年に石蔵屋の第二酒造場として建造されました。石蔵屋の歴史がパネルで紹介されています。工場見学はやっていませんが、試飲コーナーもあり、改修されていますが建物の見学はできます。

 

【新茶屋・若松屋】

 この図の中央付近が若松屋です。高杉晋作が潜んだ事でも有名ですが、今はなにも残っていません。マルショク千代町店の道向かいの辺りと推測します。手前は石堂川(御笠川)道は金出道(篠栗道)です。博多方面から石堂口門を抜け石堂橋を渡れば、絵図の金出道と唐津街道に分かれます。若松屋には隠し部屋もあったらしく、高杉晋作はここで筑前勤皇党の同志を待ちます。

 

かなり見えにくい場所にあります、元福岡市長の進藤一馬さんの揮毫です。

 

 

【常盤館跡の碑を探す】

常盤館の前身は若松屋でここで晋作は筑前勤皇党の同志が来るのを待っていました。この辺りは水茶屋と言い繁華街でした。

 

 

 

【石堂口門】

 高杉晋作の関所破りで有名な石堂口門ですが今はありません。奥村玉蘭の筑前名所図会を見ると左右を塀で固めた橋もコンクリート橋に代わっています。門の両脇にある海元寺と一行寺は現在もあります。古写真で比べると、一行寺は古写真と一緒で海元寺は建て替えています。ここから一旦柳町の遊郭に行き、夜になり石堂川に降り博多湾の砂浜を走り対馬藩邸に行きます。

 福岡城は福岡地区は高さ10mの石垣の枡形門までは総構えと思われていますが、中州を越えて博多区に入れば東・南・西側とお寺だらけで、特に東側は黒田長政公が筑前入国以来に石堂川沿いの蓮池町に福岡城防衛のため12の寺を集めています。

 

【石堂口門・古写真】

石堂口門のAIによるイメージ画像

 

 

【現代の石堂橋よりの景観】

 博多方面から石堂口門を渡った場所からの古写真です。左の一行寺の風景は全く現在と一致しています。また右側の海元寺は建替えられて景観が違います。この門を通り、黒田のお殿様は参勤交代に行ったり、菩提寺の崇福寺に行っていました。上の絵図面と比べても一致しています。

 

 

【柳町】

柳町の妓楼から石堂川に降り博多湾の砂浜に抜けて対馬藩邸に行く。現在はこの砂浜は埋め立てられていて高杉晋作が砂浜を走り藩邸に行ったであろう道は那の津通りになっています。

 

【対馬藩邸】

ここで筑前勤皇党の同志と会いまた石堂門を通り長州を目指しますが、途中で早川勇邸に行きそこで長府藩士と行違った事を知りまた対馬藩邸に戻ります。整理しますと長州に帰るのに一回博多を出て、水茶屋まで行き石堂口門から戻り(関所破りの場面)対馬藩邸に行き金銭を得て、また長州に戻ろうとして宗像の早川勇邸まで行き、長府藩の同志と道中行違った事がわかり、対馬藩邸に引き返して長州藩の情報を得て、今度は長州に帰ります。

 

 

 

【博多川・石蔵邸付近】

筑前勤王党の林元武の備忘録に博多

上陸の場所が書いてあります、曰く「現在の商会所付近」とあります。明治の地図を見ましょう。現在の博多中学校の下(南側)辺りでしょうか。

 

最後に博多川の周辺を見てこの付近に(石蔵商店辺り)晋作が上陸して石蔵卯平邸に匿われたことに思いをはせてこの町歩きは解

散します。

【九大コレクション・福岡城下町・博多・近隣古図】

 

 

【最後に】

 高杉晋作筑前潜入の行程と関連する場所をまとめて町歩きのルートを作りました。原資料と言える文献は元々無く、晋作自身は筑前に行ったくらいしか書き残していません。明治になって歴史家の江島茂逸が筑前勤皇党の生き残りや関係者から聞き書きした物が「高杉晋作略伝入筑始末」です。福岡藩に都合の良いように創作や捏造と思われる文書もありますが、これが晋作の伝記の初出と思われます。

 林元武は筑前勤王党で、乙丑の獄で家族と赤坂の風切り谷で別れ桝小屋に送られます。遠島になるはずでしたが、野村望東尼の姫島脱獄で遠島予定の罪人達の運命が変わります。遠島にすると奪還されるおそれがあるために、林元武は桝小屋留置から福岡城内の南丸の獄に移送されます。同じく足軽の罪人は二の丸の水の手(現在の野球場あたり)に移されます。南丸の獄舎がどこか分かりませんが、当時まだできて新しかった、平櫓である、等考えると現存して重要文化財になっている南多聞櫓かもしれません。