「大江戸浮世絵美術館」「大江戸お墓巡り図鑑」もぜひ見てください!
【中洲太陽映画劇場】
三浦春馬さん主演の映画「天外者」封切より1周年の2021年12月11日に中洲太陽劇場で1日限定「天外者同窓会」特別上映が開催されました。当時の劇場スタッフさんの手作りディスプレイです。
この特別上映に三浦春馬ファンの妻が行こうと言い出して、もとより私は歴史に興味があり五代友厚の生涯と言う事で楽しみにしていました。内容は歴史ファンとしても見応えがあり面白く良い映画でした。この映画は封切り当時この劇場でロングラン上映されていましたが、この日は1日限定で再上映され遠方から来た人も多くまさに同窓会と言った雰囲気でした。
この映画館も2024年3月に閉館して解体されました。昭和を感じさせる建物でした。
【ロンドンの薩摩留学生】慶応元年6月
写真①
前列左から・主な業績
『森有礼19歳』初代文部大臣
『市木和彦24歳』海軍兵学校長
『中村博愛25歳』外交官・政治家
後列左から
『畠山義成23歳』文部官僚・教育者
『高見弥一31歳』数学教師・沖縄県庁
『村橋直衛(久成)23歳』開拓使官吏
※御小姓組番頭 変名 橋直輔
『東郷愛之助23歳』1868年戦死
『名越時成21歳』不明
【神戸又新日報 廣告】
鹿児島縣鹿児島郡鹽屋村
村橋久成
一 相貌年齢四十八◎身幹五尺五寸位◎顔丸ク色黒き方◎薄き痘痕アリ◎目大ニシテ鼻隆キ方◎前歯一本缺◎頭髪薄キ方◎其他常體
一 着衣木綿シャツ一枚 白木綿三尺帯一筋 右の者本年九月二十五日當市葺合村ニ於て疾病の爲メ倒レ居リ、當丁救護中同月二十八日死亡二付仮埋葬ス、心當リ丿者八申出ベシ。明治廿五年十月 神戸市役所
村橋久成
鹿児島藩士族にして加治木島津家の分家、村橋久柄の嫡男、家格は「寄合並」。
父の久柄は琉球に赴任する途中で難破し行方不明。1865年1月に薩藩留学生に選抜され渡英するも1年で帰国します。その後戊辰戦争に参加、参謀長黒田清隆に属し隊長として奥羽函館に出軍する。
維新後は開拓使官吏となり明治9年に北海道にサッポロビールの前身となる麦酒醸造所と葡萄酒醸造所を建設します。明治14年に開拓使を辞職した後に牧畜会社の社長になりますが飄然行脚の身となり行方知れずとなります。
明治25年10月神戸でさまよい行き倒れた者がいて、行旅死亡人となります。住所名前は聞き出していて神戸市より鹿児島に問い合わせたものの該当者はおらず、新聞広告に載るまで誰も行方を知りませんでした。10年ものあいだ行方不明でどこでなにをしていたかは不明です。
東京の新聞「日本」による記事(部分)
・・・盟友親族の留むるをも聞かず官を捨てて飄然行脚の身となり、千山萬水を跋渉し行方も知れずなりしが図りなくも神戸三界に彷徨いて行旅死亡人となり、身のなる果を朋友知己にも知らせたり。定めなきが浮世の常とは云へ、左りとては墓なき最後かなと。 -中略- 栄枯盛衰は夢の如く、功名富貴は幻に似たり、村橋氏の感ずる何の爲に感ぜしやは知らざれども、その末路を見てうたた悽然たるものあり。
勤王派古高俊太郎は新選組に捕らえられて土方歳三に拷問され御所に放火し天皇を長州に奪還する計画を白状します。
元治元年(1864年)6月5日三条通の長州藩常宿池田屋において20名程の志士が密会をしていました、鴨川の西側を探索していた新選組の近藤、沖田、永倉、藤堂の4人はその現場へ踏み込みました。近藤は「御用御改め!手向かいいたすにおいては容赦なく斬り捨てる!」と大声を発しました。
この時土方隊は鴨川の西側を探索していました、たった4人で池田屋に斬りこみます。沖田が一太刀浴びせますが持病の為に喀血しすぐにその場を退きます。
2階に上がる大階段・・志士との戦いも三人では苦戦を強いられたが遅ればせ土方隊が到着して決着がつきました。
2階に記念撮影ができる。スポットがあります。
新選組は池田屋事件の働きで天下にその名を轟かせました。
お龍の手記では龍馬は新選組が通ると身を隠しました。
【産寧坂の桜】
江戸幕府から池田屋事件の残党の捜索を命じられた新選組は、東山の料亭「明保野亭」に長州系浪士が潜伏しているとの情報を得ました。武田観柳斎率いる新選組隊士15名と会津藩士5名の20名がともに探索に出動しました。明保野亭に踏み込むと座敷にいた武士が逃げようとしたため、会津藩士の柴司(21歳)が追いかけて庭先に追い詰め、背後から手槍で腰を突いて後ろ傷を負わせました。直後に相手が「自分は浪士ではない、土佐藩士の麻田時太郎である」と名乗り、確認が取れたため解放し、麻田は土佐藩邸に引き取られました。
会津藩は事情聴取の上、柴の行為は正当な職務遂行であって問題なしと裁決し、念のため土佐藩邸に見舞の使者と医師を送る。これに対し土佐藩側は、最初に名乗らなかった麻田に落ち度ありとし、公式には穏便に処理する姿勢であった。しかし翌11日に土佐藩が、現場で逃走を図った上に武士にあるまじき後ろ傷を受けたことを「士道不覚悟」として咎め、麻田を切腹させたことで事情が変化します。
当時、土佐藩は藩主山内容堂の方針で公武合体を支持しており、会津藩との関係も良好であったが、内部には土佐勤王党など倒幕を目論む勢力もあった。その中で起きた会津藩士との刃傷沙汰と麻田の切腹を、土佐藩士の一部は土佐藩に不公平な処理とみなして反発し、新撰組・会津藩への報復を主張する者も現れた。山内容堂も藩内強硬派の意向を抑えかね、事態は会津と土佐の衝突に発展しかねない状況になってきました。
会津藩主・松平容保は、事態の処理に苦慮する。京都守護職という立場上、他藩との抗争で自ら京の治安を乱すことはできない。一方で土佐藩の面子を立てて事態を収拾するには、両成敗で柴司を処断する以外になかったが、いったん正当と裁決した上は柴に切腹を命じる名分がなく、不可能でした。
藩主の苦悩を聞いた柴は兄とも相談の上、自主的に切腹することで藩の苦境を救う決意をする。結局、12日に柴司が兄の介錯で切腹し、会津藩と土佐藩の衝突は回避された。柴の葬儀には会津藩士の他、新撰組隊士たちも参列してその死を惜しんだ。墓所は京都・金戒光明寺にあります。
この事件の舞台となった明保野亭は当時、他にも多く見られた様に料亭と旅宿を兼ねており、倒幕の志士による密議にも多く利用されていたことが事件の背景にあったと考えられる。また、土佐の坂本龍馬の常宿の1つといわれている。なお、明保野亭は現在も東山区清水三年坂(産寧坂)に石碑とともに店舗が現存するが、当時は現在よりもやや北東位置にあったとされています。
新選組は実際には勤皇派の浪士を斬るより、内部抗争で殺した数のほうがはるかに多いと言われています。
高瀬川周辺は観光客が押し寄せ、春になると桜が満開になります、高瀬川周辺は江戸末期に暗殺が多発しました。土佐藩邸跡があり、龍馬の活動の痕跡がありますが今回は龍馬は登場しません。
古高俊太郎寓居跡、阪急河原町駅の高瀬川沿いは幕末に暗殺事件が度々起こりました。古高俊太郎は、桝屋湯浅喜右衛門と称して築前藩御用達商人を装いながら長州志士らに武器類を調達していました。
下京区木屋町四条下ル西入ル
古高俊太郎は新選組に捕縛され土方歳三の凄惨な拷問に耐えかねて京都御所を焼き払い孝明天皇を奪い長州に連れ去る恐ろしい計画を自白しました。
旧新選組屯所、前川邸、古高俊太郎はここで逆さ吊りにされ下から両足の甲に太い釘を打たれ、突き出た釘先にロウソクを刺し火をつける。ロウソクの火はロウをとかして傷口に流し込む拷問を受けます。この自白については新選組側の誇張や捏造の疑わしい点もあると言われています。
池田屋の石碑の場所には現在居酒屋があります。三条通り木屋町西入ル北側、古高俊太郎は自白して六角獄に繋がれたましたが禁門の変の大火の最中獄中で斬られました。
「八月十八日の政変」により京都から追放された長州藩が挙兵して御所に押し寄せました。結果は幕府軍が勝利し長州は敗退してこの後の二度の長州征伐につながります。この1864年8月20日の禁門の変の京都大火の時に六角獄舎の政治犯は釈放されずに処刑されました。京都は火の海になり六角獄舎も類焼が懸念されますが京都町奉行の滝川具挙は囚人の解き放ちをせずに古高俊太郎や天誅組の乾十郎、筑前脱藩浪士平野国臣などの政治犯が処刑されました。
【本間精一郎遭難の地 京都三条木屋町下ル】
本間精一郎は薩摩や土佐に尊皇攘夷を説きましたが岡田以蔵・田中新兵衛に暗殺されました。
【本間精一郎の晒し首】
この邸宅には今も岡田以蔵の刀傷が残っているそうですが一般の観光客には開放していません。
【佐久間象山と大村益次郎遭難の碑】
高瀬川沿いはたくさんの石碑があり幕末の歴史の暗闇が見れます。
幕末最先端の知識人であり公武合体・開国派で当然のごとく尊王攘夷派に狙われました。高瀬川沿いの居宅で河上彦斎らに暗殺されました。
佐久間の寓居跡はご覧のように駐車場入り口に石碑が建っています。
高瀬川周辺にはこれだけの史跡・石碑があります。
【戯作 竈門将軍勘略の巻】
この本に葛飾北斎が二代目蔦屋重三郎へ宛てた舌代(口上書き)が最終頁に書かれています。
【竈門将軍勘略の巻 舌代】
不調法なる戯作つかまつり差し上げ申し候。これにて御間に合いそうらはば、なにとぞご覧の上、ご出版くださるべく候。初めての儀にござそうらえば、あしき所は、曲亭馬琴先生に御直しくだされ候よう、この段よろしく願いたてまつり候。またまた当年評判すこしもよろしくござそうらえば、来春より出精つかまつり、ご覧に入れ申すべく候。右申しあげたく、早々不具
十月十日
蔦屋重三郎様
時太郎 可候画作
【飯島虚心の解説】
「初めての儀云々」は戯作をなすは初めてにあらず、現に是和斎といへる頃の戯作あり、けだし蔦屋の注文にて出版するは初めてなれば、謙遜してかくいへるなるべし。
【二代目蔦屋重三郎】
蔦屋重三郎が47歳で脚気で無くなり二代目は初代の番頭で婿養子の勇助でした。二代目は葛飾北斎を本格的に起用しました。
この舌代(ぜつだい)には二代目の版元に対しては今後も引き立ててくれるように低姿勢で、悪い所があれば直しを曲亭馬琴先生にと、この頃は親密であった関係も示唆しています。また今年本の評判が悪ければ来年は頑張ります。とすでに次の作品の依頼も期待した口上となっています。
明智光秀は京都支配の一連で天正7年(1579)丹波・丹後両国を平定します。平定した丹波国に亀山城・周山城を築城し、横山城を改修して福知山城に改名します。ここでの光秀の領内経営は見事なもので、城下町の建設、由良川の堤防建築したり、領地経営においてすぐれた手腕で成果を発揮しています。
NHK大河は明智光秀の人物像を民の為に戦乱を終わらせ、平和な世の中を作る正義感のある人としましたが、結果だけを見れば主を誅して天下を簒奪しようとした極悪武将としか思えません。文武に秀でていて連歌や茶道に造詣が深い反面、信長に同調し比叡山焼き討ちに積極的に参加し、仏教勢力に対して強硬手段を用いています。また本能寺の変では信長を虐殺し、とても正義感のある良い人物とは思えません。
だれが本能寺の変の黒幕かと推測しますと、個人的な意見になりますが明智光秀が実行犯で朝廷と足利義昭が黒幕だと思います。この三者が協力して更に関係者より羽柴秀吉や細川藤孝等はなんらかの方法で事前に把握していたのではないかと思います。
本能寺の変での計算違いは細川幽斎(藤孝)や筒井順慶に出兵を拒まれたことです、細川幽斎は明智光秀を快く思っていなかったかもしれません。友人のように接してはいても油断はならない人物と評価していたのでしょう。その頃筒井順慶・細川幽斎は明智光秀の部下ではなく、独立した大名でグループリーダーの光秀の指示でも動く与力でした。
福知山城は天守は現存せず、昭和61年に復元されていますが土台の石垣は残存しています。野面積み(のづらづみ)で自然石を巧みに組み合わせて、その素材に旧勢力の寺院を破壊し石垣に組み込んだ五輪塔や宝篋印塔などの石材を転用しています。
横山城と呼ばれていた簡素な掻上げ城を拡充整備して福知山城と改めました。城主が交代する中で1600年頃には近世城郭として完成しました。由良川やその支流を堀として、自然の丘陵を利用した堅固な城郭でした。また天守閣は初期望楼型と呼ばれる古い様式で建築され、明治6年の廃城令で取り壊されましたが、石垣は残りました。
この写真では寺社から簒奪した石材が角の算木積みに多く使用されています。福知山城はJR福知山駅から歩いて10分くらいの位置にあり、少しの時間で立ち寄る事が可能です。算木積みとは、石垣の角の部分に使われる崩れにくくする技法です、石材を平らにし直方体にした石材を交互に積みます。
石垣角の部分のアップです、なんとなく算木積みのイメージが掴めたでしょうか?よくもまぁこれだけの石材を寺社から分捕ってきたものです。大事な石材を奪われたお寺の悲鳴が聞こえてくるようです、それにしても現在まで使用されているこの算木積みは見事です。
穴太衆は現代まで続く石垣職人で、石組は計算ではなく熟練した職人が石の形状をみて組んでいき、熟練ともなると石がどの場所に行きたいか、石の声が聞こえてくるそうです。私の自宅の近くのお寺では現代の穴太衆が石垣を組んでいて、ショベルカー一台で見事な石垣ができています。
【大井戸 豊磐井(とよのいわい)】
井戸の深さはなんと落ちたら最後の50m、朽木氏の時代に人力で掘ったという驚異的な井戸、当時の技術の高さもさることながら、城郭における水の必要性がひしひしと感じられます。
本能寺の変の一番槍、安田国継で通称安田作兵衛です、浮世絵の表記には安田宅兵衛になっています。江戸時代は徳川家につながる絵はご法度になっていましたが、規則をかいくぐり変名や時代を変えてみる人にはわかるように制作されていました。
上の絵の太田平春永公と書かれているのはもちろん、織田信長の事です。この絵は江戸末期に歌川芳幾が書いています。幕末の世相を暗に比喩して本能寺の変を描いたのかもしれません。
安田国継は織田信長に一番槍で手傷を負わせ、更には森蘭丸を討ち取る功名をたてています。この人物はこの後数奇な人生を送りますがほおにできた出来物が悪化して慶長2年(1597)6月2日に亡くなりました、信長は天正10年(1582)6月2日と同じ日に亡くなり信長の祟りと言われています。
福知山城には残念ながら入城する時間はありませんでしたが、歴史の重みのあるいい城でした。本能寺の変の真相はいまだ解明されておらず、テレビ番組でも本能寺の変の謎や黒幕について取り沙汰されてます。
ここで本能寺の変の真相を推理します。黒幕は足利義昭で朝廷より明智光秀に織田信長暗殺の密勅を出していて、自らは明智光秀の庇護のもとに将軍復権を目論んでいました。それとは別に足利義昭は明智光秀が京都を掌握しても実力者の秀吉が弔い合戦に出ると予測しました。毛利と和睦したと見せかけて京都に引き返すところを毛利軍と明智軍で挟み撃ちにして全滅させる作戦をたてました。
毛利側の外交僧である安国寺恵瓊にその作戦を伝えました。秀吉は戦を毛利側に破格の条件で和睦で終わらせた。安国寺恵瓊は謀反が確認できた時点で追討作戦に打って出ようとしました。黒幕側の思惑がはずれたのは明智光秀には有力武将が合流して味方になろうとはせず、頼みの細川まで動かない。細川藤孝は筒井順慶や近在の武将まで味方しないように根回ししたようです。
こうして予想外の高速中国大返しと、秀吉が意図的に流したデマ「信長様は生きている!」で疑心暗鬼を生じた安国寺恵瓊は秀吉を追えず明智光秀に従う有力武将はいなくなりました。織田信長の首は秀吉に意図的に隠されたのでないかと見ています。明智光秀の人生は謎が多く、前半生はほとんど判明していません。謀反の動機も本人野望説や黒幕説など誰もわかりません。
現実的に見て取れるのは、光秀は権謀術策に優れていて、松永久秀や荒木村重を上回る変節漢であった。秀吉との出世競争では後塵を拝した。本能寺の変後に細川や筒井が光秀陣営に加わらなかった事は日頃から人望が無かった証であり、ましてや主殺しの大悪人を支援するものは多くはなかった。かくして秀吉は織田信長の敵討ちの大義名分で大軍勢となり山崎の戦いで勝利しました。
織田信長が軍事的に孤立した状況で本能寺に、後継者の信忠も近隣の妙覚寺に滞在していました。秀吉毛利攻めの応援部隊として明智光秀が支援に向かう手筈でしたが裏切って本能寺を襲いました。絶対的に信頼していた部下に裏切られた信長親子は非業の死を遂げました。
秀吉はもちろん自分から要請した毛利攻めの支援で京都が軍事的にがら空きの状況になるのは把握していたと思います。引金を引いたのは光秀ですが、秀吉が一因であることはまちがいありません。
ここで何故そこまでして京都本能寺でお茶会を開いたかと言いますと、博多商人、神屋宗湛と島井宗室を招待して信長自慢の茶器を披露する事と島井宗室が持っている茶器『楢柴肩衝(ならしばかたつき)』がほしかったからです。
【織田信長がほしかった楢柴肩衝のレプリカ】
【島井宗室等にあてたお茶会の案内】
織田信長はこの茶会の主賓を島井宗室とした松井友閑の文書が現存しています。
【博多の豪商 島井宗室】
本能寺の茶会の主役はこの島井宗室でした。その他の招待者は「つけたり」ついで扱いでした。
【弘法大師空海筆 千字文】
島井宗室がお茶会の翌朝本能寺の変に見舞われて、床の間に掛けてあった弘法大師空海の千字文を引き剥がし持ち出しました。現在は博多の東長寺が所有しています(非公開)。
【JR安土駅前 織田信長像】
織田信長は当時画期的な街づくりをしていました。一部の業者が市場を独占する特権階級を無くし、楽市楽座で誰でも市場に参入できるように経済を活性化しました。兵農分離を促進し家臣を城下に住まわせ衣食住の消費経済を回しました。
【織田信長公本廟】
秀吉が建立した本廟には太刀・直垂・烏帽子などの遺品を埋葬しました。
【安土城天主跡】
安土城は本能寺の変後に何者かによつて燃やされました。現在立っているのは地下1階部分です。周りに石垣がありますがこの石垣の上に天主が建っていました。地上部分はこの2倍はあり5層・7階(地上6階・地下1階)の壮大な天守閣で、信長に招かれたルイス・フロイスはヨーロッパにもない壮大な城と書き残しています。
【赤く焼け焦げた石垣】
いまだに赤く焼けた瓦が出土します。
【安土城本丸跡】
本丸跡には天皇を招く御幸の間がありました。安土城で一番高い天守閣から見ると一段下に見下ろす形になります。その御光の間が清涼殿とすると天皇が信長より格下のようなイメージになります。天皇は行幸の依頼を2度断っています。つまりここで本能寺の変の黒幕として危険を察知した朝廷が浮かび上がります。
【安土城模型】
【安土城天主最上部二層部分】
セビリア万国博覧会に出品後に「安土町文芸の郷」に移築されました。実際に下の5階部分に入る事ができました。
【最上階内部】
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【潮見櫓軸組み模型】
【潮見櫓のある三の丸付近】
【海軍操練所跡】
亀山社中や海援隊のルーツとなりました。
海軍操錬所があった辺り
勝海舟の夢の跡、神戸海軍操練所跡碑ですメリケンパーク方面を向いて建っています。かなり立派な碑ですが、ここに勝海舟と弟子達の銅像を建てたらもっといいと思います。駒札の代わりの本のオブジェがキャプションになっています、上を向いている為、雨の汚れがしみこむのか、黒くにじんで見にくくなっています。龍馬が塾頭では無く、佐藤与之助が本当に現場を取り仕切る塾頭だったと言う話が、なんでも鑑定団の勝から佐藤への多数の手紙が発見されて取り沙汰されていましたが、龍馬は私塾として集った幕臣の子弟以外の各藩の代表的な存在で自然とリーダーになるような存在だったと思います。
実際に在った場所には高速道路の下やビルの下になり史跡は見るすべもありません龍馬も見たであろう、海軍操練所の前方の景色です、神戸ポートタワーや商業施設のモザイクが見えます。池田屋で望月亀弥太が一味に加わっていて、海軍操練所が尊王攘夷派の巣窟とみなされ、勝海舟が罷免、海軍操練所は閉鎖の憂き目に会います。龍馬はこの後、長崎に向かい亀山社中を結成します、この日は偶然にも航海練習帆船、日本丸(Ⅱ)が寄港していました。
【坂本龍馬 写真】
武市祐吉氏寄贈の龍馬古写真
NHK大河ドラマ龍馬伝配役の直筆サインが展示されていました。
NHK大河ドラマ近江屋二階の室内のセットです。