OH!江戸パパ

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隠された史実にズームイン!歴史ハンター「大江戸おやG!」のブログです。

歴史散歩と美術品蒐集が大好きな「大江戸おやG」です。ブックマークの「幕末タイムトラベル!」
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書きかけ記事

 

筑前名所図会は奥村玉蘭(1761-1828)により1821年完成されました。しかしながら当時の福岡藩が許可せず日の目を見ずに完成本も県立福岡図書館が保存していましたが戦災で焼失してしまいました。

 

現在ある「筑前名所図会」は完成前の稿本から10巻にまとめて昭和48年に西日本新聞社より500部発行されました。今回は「筑前名所図会」の挿絵から博多の町をさんぽするガイドを作りました。寺社を新旧比較しながらさんぽしてみませんか。


 

【大乗寺・川端通り・博多川】

大乗寺 806年 開基 空海

大乗寺跡は冷泉小学校跡でもあります。現在は中世博多港遺跡の発掘現場であり、港の石積遺構や貿易品の硫黄等が発見されています。調査の後に埋め戻され更地のようにになっています。

 

★敷地には柵がしてあり中には入れません。こちらの建造物は外周に有り見学できます。亀山上皇勅願石、地蔵菩薩板碑、碇石

 

 【櫛田神社・山笠櫛田入の図】

櫛田宮(757年)・祇園宮(941年)・大神宮(不明)元は別々に祀られてましたが太閤町割りの時期に三社相殿となりました。追い山笠は江戸時代は13m前後の今の飾り山程度の高さがありました。明治になり、電線や架線に合わせて高さの低い舁山と高さの高い飾り山に分かれました。

 

★図の中の石鳥居は1675年の建立でいまでも残っています。本殿は営繕を繰り返していて江戸から明治の建築です。

 

 【櫛田神社】 

配置図は現在とあまり変わらないようです。現在の櫛田会館の場所に神護寺がありました(まん中よりの右下あたり)、神護寺は東長寺に属していて櫛田神社を管理していました。また今は無い六角堂も見えます。

 

★現在は本堂右横辺りに400年以上前の島井宗室邸の博多塀が移築されています。

★神輿社・神輿1825年制作

 

 【萬行寺・順正寺・善照寺】

萬行寺・浄土宗本願寺派 1529年 開基・性空(七里隼人) 1665年に現在地へ移る。

順正寺・浄土真宗本願寺派 1583年  

善照寺・浄土真宗本願寺派 1640年 

 

右上が萬行寺、左上順正寺、左下辺り善照寺です。この配列で現在もあります。萬行寺本堂は法要が無いときは入れます。(時間指定在り)

★萬行寺には明治維新の際に勤皇商人として活躍した石蔵卯平のお墓があります。碑文には石蔵卯平の業績と共に高杉晋作・西郷隆盛・野村望東尼・月形洗蔵の名前が刻まれています。(但し石碑の裏ですので表からは高杉晋作の名は見れます。)

★萬行寺入ってすぐ右側に、信心深かった遊女名月の初七日に蓮華の花が咲いたと言う「名月の墓」があります。

 

 

 【東長寺】真言宗 806年 空海(開基)

弘法大師空海は804年に遣唐使船で唐に渡り、長安の青龍寺で修行をし恵果阿闍梨より真言密教を伝授され第八祖となる。1634年頃から福岡藩二代目藩主・黒田忠之より現在地に移転し再建される。本堂にある不動明王は二代目、厨子にある千手観音(平安時代)、弘法大師像は秘仏です。(公開日有り)

 

★黒田家墓地は絵図そのままの位置にあります(1654年頃~)。但し三奈木黒田家の二代目当主、黒田一任(くろだかずとお)の墓は東長寺の中を転々として現在は黒田忠之と光之の間にある。また石城志や筑前国續風土記にある山伏秀栄の墓は何時の頃か無くなりました。(挿絵左の雲で覆われた黒田墓地部分にあるはずです。)

★二天門にあった先代の持国天立像(12世紀頃)・多聞天立像(1598年)は現在、大仏殿の左奥に安置されていて拝観可。

★境内にある六角堂は1842年創建で本願寺より移築されました。この図に六角堂はまだありません。拝観は毎月28日に開門されます。創建等の経緯は開帳された時に前面にある木製の机の縁に刻まれています。また六角堂の隣に(大博通り側)寄進した豊後屋栄蔵(萬歳楼袖彦)の遺髪塔があります。

★大師堂(1648年)は内部は非公開ですが境内で一番古い建築物で今もあります。大師堂にあった弘法大師像は現在は秘仏として厨子に安置されて本堂にあります。また大師堂の数珠は当時の物ではなく後付けです。

 

 【承天寺】1242年聖一国師(開山)

現在の承天寺は博多駅の現在地への移動(昭和41年)に伴う道路敷設工事で境内敷地が本堂側と仏殿側で分断されています。その先の聖福寺が史跡に指定され承天寺までで道路工事が中止になりました。普通の道路になったのですが、分断された境内を一体化する為に2014年に承天寺通りが整備され、博多千年の門が建立されて博多観光のウェルカムゲートとなりました。モデルとなった辻堂口門が絵図の右下辺りに描かれています。

 

★内部には江戸期の書院等の歴史的な建造物はありますが非公開です。仏殿側の境内には1674年に糸島の桜井神社から谷宗理が買い取り寄進・移築した袴腰付き鐘楼があります。位置は変わっていないように見えます。

★仏殿「覚皇殿」は白アリ被害で、平成3年に少し小さくなって再建されました。先代の礎石が覚皇殿に向かって右側に残されていますのでサイズの比較ができます。

★絵図にはありませんが仏殿横に蒙古碇石があります。元寇では無く宋の貿易船の可能性もあります。

★開山堂は1695年に再建、開山堂の唐門は1848年再建です。開山堂は非公開ですが唐門は拝観できます。

★庫裡は1836年再建・書院は1848年再建何れも非公開です。外見は拝観できます。

 

 

【妙楽寺】臨済宗大徳寺派 

1316年月堂宗矩(開山) 

博多の海岸部の息浜(おきのはま)にありましたが黒田長政の入国後(1600年)に現在地へ移動しました。この絵図と現在の伽藍配置を見ると大きな変わりは無いようです。

★妙楽寺の裏手には江戸期に活躍した博多の豪商神屋宗湛や伊藤小左衛門のお墓があり、拝観可能です。ここには乙丑の獄で処刑された筑前勤皇党の伊丹真一郎・森勤作の墓もあります。また開山堂の敷地には筑前勤皇党の鷹取養巴や勤皇党を弾圧した久野将監の墓があります。こちらは檀家以外は入れません。

 

 【聖福寺】臨済宗妙心寺派 

1195年 栄西(開山)

本堂は非公開ですが、写経(1500円)を頼めば本堂でおまいりして写経しながら小さな中庭は見学できます。

 

聖福寺の境内図、伽藍配置と御供所通りのズレがわかりやすいです。一番下の道路が太閤町割り以降に変わった基軸線です。

 

聖福寺については伽藍の配置は変わっていないようです。絵図の下方の御供所通りは、太閤町割り時に角度が変更され中世の境内の角度と5度ズレが生じています。中世の基軸線と太閤町割り後の基軸線は5度ズレていて、現在の境内に降りるとそのズレがわかります。佐藤鉄太郎さんの「元寇後の城郭都市博多」と言う本にそのズレから中世の博多大水道・房州掘りは第二・第三の鎌倉時代の元寇防衛線だと推測しています。

 

御供所通りの地面の高さ(標高)より境内の地面の高さが低くなっています。つまり御供所通りは現代の標高で聖福寺境内は鎌倉時代そのままの地面の高さになっています。境内の配置と御供所通りの5度のズレも確認しましょう。

 

聖福寺パンフレット・HPより引用

★開山堂の横に仙厓さんの墓があり、こちらは木戸をくぐり抜けて入場可能。

★絵図の山門は志摩桜井の観音堂を寛文年間に移築したもの、1866年に焼失して1911年に再建されました

★絵図右側の総門は黒田長政が名島城から移築した物です。屋根瓦は昭和17年に葺き替え。足利紫山書の「安国山」の扁額が掛かっています。左側の勅使門は1827年に修築した棟札があり、1700年初頭以前のものと思われます。これも屋根瓦は昭和17年に葺き替えられています。門の古さと屋根瓦の新しさを比較してみましょう。

★方丈は1601年に肥前名古屋城の旧館を移築しています。1845年に再建修理その後数回修理・改築されています。

★仏殿は中興後1673年の大修理、2012年に丈六三世仏造立と共に増築されました。

 

 【幻住庵】

幻住庵の虚白院に聖福寺123代・125代住持の仙厓仙厓さんが虚白院に隠居しました。この図の右上辺りにあるのがそうです。また左ページの寺院が西教寺です。左上には石堂川(御笠川)にかかる西門橋があり人々が行き交っています。幻住庵も西教寺も現存していてこの辺りは絵図を見ながら街並みの変化を確かめると面白いです。

 

 

 【蓮池寺町・石動橋】

 

 番外編【鏡天神・博多大水道】

 

 番外編【東林寺・房州堀】

 

大相撲九州場所応援ブログ2回目です。九州場所が始まったので福岡国際センターの力士場所入りの紹介をします。場所入りはチケットが無くても見れるため多くの方が見物に来ています。飲食のコーナーや取り組みをテレビで見られる為人気があります。

 
 

この風景は若貴時代以来で、私は毎年当日券を買って一番安いイス席で観戦していましたが、去年は当日のイス席は完売で高い席しかなく、今年はそれすら完売していました。入れないお客様は場所入りを見ながら、飲食のコーナーで楽しんでいます。
 

飲食のコーナーは充実しています、九州の特産品はキッチンカーも出て、大テントでビールを飲みながらテレビで相撲観戦もできます。
 
 
 テントのコーナーでは元関脇の魁聖さんがガラポンコーナーをやっていて「たくさん当たるよー」と呼び込みまでしていました。一回500円ではずれましたが、はずれでこれだけ景品もらえました。観戦ガイドは9月の本でしたが、貴景勝関が載っている貴重な号でした。

 
 以下に力士場所入りの例をアップします。入場券があると中の入口付近で見れますがごった返すので外がおすすめです。
正装での場所入りは江戸時代の浮世絵を見るようで外国人にも人気です。

遠藤  14:47
福岡国際センターの左横に駐車場がありそこから続々場所入りします、幕内力士は14時〜16時頃に場所入りしますが15時前後が多いようです。
 

 御嶽海 14:48

 

翔猿 14:50

大の里 14:52

阿炎 14:55

豊昇龍 15:03

大栄翔 15:06

霧島 15:19

次回は会場内をお届けする予定です。

 

 

筑前名所図絵の作者、奥村玉蘭の足跡を訪ねて西鉄都府楼前駅から太宰府天満宮までの街歩きをしました。約2時間くらいでまわれますが、途中で太宰府政庁跡で太宰府展示館(有料)や観世音寺で宝蔵(有料)を見るなら約3時間。更に太宰府天満宮に着いて茶屋で食事休憩するなら所要約4時間です。西鉄都府楼前駅より10時スタートがベストだと思います。

 

おすすめさいふ詣りルート

 

福岡の江戸時代の地誌に奥村玉蘭の「筑前名所図会」があります。福岡のあらゆる場所を訪れスケッチして、古伝を古老に聞きまた書籍を探査して書き上げた労作です。

 

全10巻 開いているのは筑前名所図会巻の二、櫛田神社、山笠が櫛田入りする場面です。江戸初期の石鳥居は現存しています、また山笠はこの頃は13m前後で明治期には電線の関係で低くなりました。

 

 

奥村玉蘭1761年-1828年

玉蘭の三回忌に遺族が石丸春牛に描いてもらった肖像画。

  

1761年博多中島町に生まれる。家業は醤油醸造で通称、奥村醤油と言いました。当時福岡藩内では朱子学を教える主流派の修猷館と蘐園(けんえん)学派の亀井南溟の甘棠館がありました。
 
幕府は1790年松平定信の寛政異学の禁で朱子学以外を禁じました。各藩にも命じたわけではないのですがこれに習う藩も多く、福岡藩では金印研究で著名人になった亀井南冥の甘棠館派を追い落とすために修猷館派が利用しました。
 
こちらの醤油は奥村家の家系の醤油を再現して近年に復刻されました。
(博多奥村醤油HPより写真引用)
 
太宰府のお石茶屋で販売しているとHPにはありましたが、行って尋ねると「前はあったけど今はないです。」とのことでまだ現物は見ていません。ちなみに博多奥村の題字は、まんが家で博多町家ふるさと館の館長の長谷川法世さんが揮毫しています。
 
奥村玉蘭は甘棠館火災後に亀井南冥や息子の昭陽の甘棠館派を自宅に招き入れます。分家の石堂醤油の主人で年行司でもある奥村次吉は苦言を言いますが玉蘭は聞き入れず、親族会議で茶室は破壊され隠居、追放されました。この処分は奥村玉蘭にとっては自分のやりたい事が自由にできるまたとない機会となりました。
石堂醤油のラベル
ちなみに奥村次吉の苦言は当たり、亀井南冥は自宅の失火で焚死しましたが放火ではないかとも言われています。金印で全国に名をなしたのが妬まれました。
 
 
令和の里、坂本八幡宮。平成から令和に変わった頃は参拝客が列をなしていました。
坂本八幡宮は大伴旅人邸跡とされています。元号「令和」は梅花の宴がここで催され、梅花の歌の序文より引用されました。
 
太宰府政庁跡
 奈良、平安時代に九州の政治や外交を担った役所です。礎石が平面復元されています。
 
太宰府展示館(有料)
太宰府政庁の遺構や出土品が展示され歴史や文化が分かりやすく紹介されています。あまり知られていませんが太宰府市のマンホールカードを無料で配布しています。
 
太宰府学校院跡
博多を追われた玉蘭は太宰府学校院跡辺りに草庵玉蘭亭を建てます。仙厓さんが扁額を揮毫して励ましました。
 
筑前名所図絵を上梓する為に筑前国内各地を巡り地理、風俗、行事、歴史、寺社など古伝を古老に聞き書籍を探査し、風景を写生し構図を練り稿本を作成します。
 
稿本を重ねて1821年に筑前名所図会は稿成り浄書して藩庁に献じ出版を願い出ますが、許可を得ることはかないませんでした。あまりに地図や寺社の見取り図が詳しく藩の秘密保持の観点で危険視されたと言われています。昭和48年に出版された筑前名所図会の解説では、学問所指南役の竹田簡吉が図会の中で松囃子の図に本丸の風景が描いてあるのを不都合として、松田三平・原田卜養・多田作衛もこれに賛同した。とあり藩の検閲によって出版は許されなかったと推測しています。
学校院跡の遠景
玉蘭の没年は1828年5月6日で学校院阯近くの草庵玉蘭亭に病み中島町の自宅に帰り行年68歳で死去しました。博多の幻住庵にお墓はありますが非公開です。墓碑銘は玉蘭堂渕伯居士で亀井昭陽が揮毫しています。
 
筑前名所図絵の浄書本は戦前は県立福岡図書館にあったそうですが戦災で焼失しました。稿本は昭和48年に西日本新聞社から500部出版されました。完成から150年経ちようやく日の目を見ました。冒頭の写真の本はその内の1部です。
 
 
観世音寺、天台宗の寺院で開基は天智天皇7世紀後半に造営されました。九州屈指の仏像が拝観できます。
 
国宝の梵鐘は九州国立博物館に常設展示されています。鐘楼のみ残っています。
 
戒壇院
奈良時代に観世音寺に戒壇院がおかれました。僧侶として守るべき戒律を授けて正式の僧侶として認められます。江戸時代に観世音寺を離れ禅寺となりました。
 
西鉄都府楼前駅から太宰府天満宮方面に歩いていくと御笠川沿いに「奉納三所塩食碑」があります。この石碑は1830年に建てられて、博多聖福寺の仙厓さんが碑文を揮毫しています。二見浦、和歌浦、箱崎浦の御塩井を取り寄せて川の水を清めました。博多方面からさいふ詣りに来た人たちはここで身を清めました。

 1852年に博多商人が寄贈した
「銅製麒麟並に鷽」
銅製鷽 台座含む180cm 円柱の台座には「奉納銅麒麟」と書かれていて、寄進した博多商人250人以上が連記されています。博多鋳物師山鹿包秋、包信、包春により作られました。
 
以下は文献・出典不明の話です。
※銅製麒麟は奥村玉蘭の原画を元に制作されました。
※グラバーがこの麒麟像を見て気に入りキリンビールの商標を思いつきました。
 
 
 麒麟像の後ろにある鷽の石像には明治39年、石蔵酒造の博多百年蔵、石倉利八の名が刻まれています。博多の勤王商人「石倉卯平」の家系です。
 
 太宰府天満宮絵馬堂は奥村玉蘭が発願して1813年に建立、寄進されました。普段はベンチをおいて休憩所に使われ、またイベントにも使用されます。この日は福岡の酒造業者が試飲、販売をやっていました。
 
 
 題字の西都奇観と孔雀図は奥村玉蘭筆
 
斎藤秋圃(1772年-1859年) 
袴垂図(はかまだれず)
追い剥ぎ盗賊の袴垂が都大路を歩いていると笛を吹きながら貴人が来る。着物を剥ぎ取ろうと打ちかかるが失敗する。言われるままに男の家についていき、諭され着物をもらう。その貴人は頼光(らいこう)四天王の一人の藤原保昌(やすまさ)であった。
 
江戸時代は浮世絵等で人気の画題でした。金網で分かりにくいですが左に笛を吹きながら歩く保昌。右に襲いかかろうとするが恐怖を感じ立ちすくむ袴垂。足元には萩、薄、桔梗やつゆ草がなびいている。
 
斎藤秋圃は円山応挙らに学び大阪で活躍して秋月藩の御用絵師を勤めた後に大宰府に移り住みます。この絵は1815年ですからまだ御用絵師の時代に描いて奉納しています。
 
 
 
重要文化財ご本殿は大改修中です。現代アートのような仮殿が見られるのは三年間限定で取り壊されます。
 
 
太宰府天満宮の一番奥にあるお石茶屋、昭和の時代に筑前三美人と言われた江崎イシさんが営んでいました。炭鉱王、麻生太吉がイシさんの為に自宅と茶屋の間にトンネルを掘ったのが現在もお石茶屋の裏手にある宝満山参拝隊道です。お石茶屋では私はいつも親子丼と梅ヶ谷餅を頼んでいます。