「博士の愛した数式」 | 定年後の風景

定年後の風景

定年後や病気のこといろいろ書いてます

 

2006年邦画をアマプラ402作目となります。少し気分もマシで主にどう言う映画なのかを知るために書くのは前作「ロスト・エモーション」と同じでしょうか。同じ程度と言ってもよいかも知れません。懐かしい、実生活ではまず使わない高校レベル位までの数学用語が出て来ますね。

 

映画の中の授業風景も、あれは高校でしょうか。数学Aで文系でも習ってたですかね。未だにしかし今まで習った教師と言うのは、学問への情熱無く、まあ言えば試験と文部省の課程のために淡々と日々の日課で教えてただけに思えて、それでも先生たちはなりたい教師になって教えれて、やりがいあったのかは未だに聞いたことが無く謎のままですね。

 

情熱的に教える先生も居て、実際はやりがいがある人は多かったのだとは思いますけどね。それはもう実のところ、自分もなりたい技術者になって、他の何になるよりも仕事が面白くてやり甲斐あったので、それと一緒だったのだと想像はつきますけどね。

 

しかしまああの勉学と言うのは、実際は子供は皆勉強したくて賢くなりたくて試験はよい点採りたいのですが、いざやり始めると、当然強制的で、ほぼ全員楽しくなく、面白く無くなる原因は何なんでしょうね。

 

しかしああいう風に毎日毎日一日中教室に座らされて、教科書やプリント見て勉強するのは若い時に騙されてするしか、する時期及びさせられる時期は無いことは、大人になって働いてから、資格試験で「勉強」する時になって、初めて気づきますね。

 

あれは若い人のエネルギーのみが無し得ることと気づきますね。子供の時は勉強だけしてて働かずともよく、大人になると仕事だけしてて勉強をしなくても生きるのは生きれます。そして本当に勉強したくなるのは、大人になってから、退職してから、自ら真に学校行ったりします。

 

まあ大人になると、仕事さえしていれば、あとは遊んで暮らせます。よく出来てます。その代わり生活と言うのがありますけどね。仕事して生活していればあとは遊んで暮らせます。それで本作を調べると、やはり原作がベストセラーで、それを映画化したようです。

 

20年前に義姉と同乗してて、交通事故に遭って記憶が80分しか続かなくなった寺尾聰の老年天才数学者と、杖をつく老年の別館に住む義姉の浅丘ルリ子の屋敷に、家政婦として勤めることになった深津絵里と、その子の小学生との心温まる生活を描いた、しっとり落ち着いた静かなウォームフルなドラマだと思います。

 

まあ主な三人の登場人物が、達者な俳優ですから、じっくり落ち着いて見て味わえます。ことに深津絵里は余り作品に出ませんから、希少価値があり、当然大いにムードメイキングしてます。80分しか記憶が持たないと言っても、SF風味はありません。

 

単に記憶が維持出来ない、所謂病名としてある、健忘症を発症しており、本人にその自覚があってメモに書いて、身体に貼ったりして対処してるところが認知症と違うところです。即ちは一日に何度も記憶がリセットされて、相手が誰か、そして多分は自分も誰か分らなくなり、勿論同じことを何度も喋ったりして、相手は初めて聞くふりして対処するのも家政婦の仕事となります。

 

義姉のことは憶えているので、ひょっとすると自分のことも憶えてるかも知れません。事故で海馬を損傷するか、機能不全になったのだと想像します。こうした特異な環境の中で博士は生活し、しかも元は天才数学者であったので、出で来る全ての数字に意味を見つけて思考して表現してます。

 

この感じは、筒井康隆の家族八景で、テレパス七瀬が数学者の思考を透視した時に、思考が全て図形で行われていることに、驚くべき衝撃を受けた描写でイメージ出来ました。本作ではそれを数字で思考してました。そうした中で、巧みに世話を焼く深津や、その子の小学生との交流や、こまごまとした生活の事件や、心温まる交流を描いた作品となります。

 

この時面倒見て貰った小学生が、やがて数学の教師となって、多分はその思い出とともに数学を語り教える形で物語は進んでました。数学は不思議ですが、趣味にするほどは知らず、その不思議さが分って来たのは老年になって、仕事のことを考え無くなってからでしょうか。

 

原作がベストセラーになったのは、多分家族八景的インパクトでは無かったかと想像してます。いくつかの賞を受賞しており、コミック、ラジオ劇、演劇化されており、評判のようでした。海外の原案書があるようで、それを日本化翻案したとWiKiにありました。

 

作中に登場した、虚数、階乗、素数などは、言われると大雑把な意味は思い出しますが、友愛数

は習ってない気がしますけどね。