お通夜の直前に、喪服に着替える。

こんなに早く喪の和装を着るなんて思ってもいなかった。
祭壇に背を向けるようにして座るのも初めてだった
私、母、真ん中の妹で3人で並んで

参列してくれた人に挨拶をする。
高校の制服を着た末の妹が叔父や叔母に並んで座っていた。

質素で、参列者も少ないと思っていたのだが、
お坊さんの読経の間、お焼香は続いた。
どこから聞いて参ってくれたのだろう?
父の古い友人や、私の友人も多数来てくれていた。

友人達は私の顔を見て涙ぐむ
声をかけたいが声もかけられずに
目を合わせて会釈する。
長いと思ってたお通夜は、あっという間に終わった。


公民館と自宅で、親戚ばかりになる。

54歳で亡くなった、その早すぎる死に、

皆戸惑いを隠せない様子では有った。


はじめて見る祭壇や、喪服の人ばかりの様子に、

娘は見慣れない様子で、初めはおとなしくしていた。

だが、唯一久しぶりの幼児、ということもあり、

皆に遊んでもらううちに、だんだんと雰囲気に慣れた様子で

最後には酔っ払った叔父達にのせられて、

沢山、祭壇の前でもりのくまさんやチューリップを歌った。


よく父の膝の上でも歌っていた。

「おじいちゃんの供養になるよ」叔父が言って

しんみりとした祭壇の前の小さな輪が、

すこしだけ和み、穏やかになった。


町内の人が皆お手伝いに来て、

色々世話してくれた。本当にありがたかった。

新興住宅地で初めての葬儀だったので、

今までの決まりごと、というものも無かった。

だから近所の会長さんの家で、前日は長い時間をかけて

色々な取り決めをしてくれたらしい。


ただ、それが隣の町内で古くから生活している叔父には

従来のやり方とは違う部分があったみたいで、

こと細かいことを会長さんに指示していた。

葬儀は、長男の叔父によって取り決めが進んでいた。


皆が、言い方はおかしいかもしれないが、

「父の死」に慣れてきていた。

父が亡くなり2日目だからなのか?

ただ、かわいそうに、と皆が自分たちに同情的で

何も言わなくても

黙って悲しんでいればいい状況から少し変わってきていた。


親戚以外の人がお参りに来てくれると、どうしても

「どうして急になくなられたの?」と聞かれる。

悪気は無いのはモチロンわかっていたし、

私自身は、そういうことを誤魔化しても仕方ないから、

という気持ちもあった。


でも、父の警察に宛てたメモや、母や妹のことを考えると、

わざわざ自殺だと言いふらすようなこともしなくていいかな、

とも思えた。


それでも、電話や、知り合いの人と母が話をしていて

「事務所で急に倒れたみたいで。手遅れだったんです。」

などど聞くと、少し胸が痛んだ。

自殺を隠したり誤魔化したりすること。

それは、父のしたことを恥ずかしいと思っているようで、

寂しかった。


でも、母は母なりに一生懸命だった。

葬儀は、残された家族に追い討ちをかけるように

色々なことを迫ってくる。

葬儀のこと。人とのかかわり。

静かに悲しんで居たいのに

落ち着くヒマも与えてもらえない。








父を自宅の和室から葬儀をする隣の公民館に運ぶのは、

男の人の仕事だった。

私は棺を男の人が担ぎ、出て行くのを、ただ眺めていた。

目の前で動くことも無く、眺めていた。

叔父や夫、義弟たちは父に触れ、棺を担ぐことで

父の重みを感じたせいか、男の人は皆感極まっていた。


昨日から、食事はずっとお弁当だった。

父のために取って置いていた食事は、

いまだに冷蔵庫に入りっぱなしになっていた。


母に頼まれ、買い物に出る。

ちょっとした軽食など、である。

お通夜の日の晩からは、近所の葬儀のお手伝いの担当の方が

全て食事や飲み物等、用意してくれるらしい。


とりあえず、車を出す。

途中で父の配達の車と同じ車種の同色の車をみかけ、

父の車だと錯覚する。

そんなはずがある訳がないのに。


買い物に出ても、何を買ったらいいのか分らない。

陳列の棚を、ただ行ったり来たりして

今後の事をぼーっと考える。


これから。

母と高校生の妹、2人になる。

8年ほど前に、事務所兼自宅の借家から、ココに移り住んだ。

ココは、事務所から車で30分、仕事で配達に回るルートからも外れていた。


ここで家を建てることに決めたのは父で、

理由は、自分が産まれ育った街だから。

母にしてみれば、周りに友人も知人もいない。

父方の親戚が沢山いる町。

車の免許も無い母にはこの田舎町はとても不便だったろう。

その街に、妹と二人で住むことになる。

妹が免許を取れる様になるまで、半年はある。


田舎の新興住宅地に、コンクリート造りのシャッターつきの駐車場。

その脇のポーチから階段を上がり、駐車場の屋根と同じ高さに

2階建ての5LDKの家が建っていた。

夏はコンクリートの駐車場の上に昼間はプールを置いて娘の水遊びに、

時々友達を呼んでは、バーベキューをしたりした。


私自身は結婚して家を出てから、5年目だった。

ほとんど、この家には住んでいない。里帰りの家という感じ。

どちらかといえば、そんなに贅沢ではないとしても

そんなにお金に困っているなどとは思ってもみなかった。

最近になって、仕事が減って売り上げ落ちてきたのかな、

そう思ったりはしたけれど、それでも父はそんな素振りはほとんど見せなかった。

やっと最近はヒマになってきたんだよ、そんな感じだった。

今まで忙しすぎたモンね、と私も返していた。


父親にとっては理想の家のはずだった。

いつも同じ場所に座り、タバコを吸い、好きなコーヒーを飲み、

テレビを見たり、本を読んだりしていた。

苦労していた時期が報われてやっと形になったのがこの家だった。


しかし、残されたものにとって、あまりにも思い出が多すぎる家だった。

父がこだわり続けた家。

家の処分よりも死を選んだ?そんなこと・・・。

一家の唯一の男性だった、大黒柱の父がそんなはずは・・・。

やっぱり、どうしても信じられなかった。

父が自殺するなんて。


それから、今後の母と妹のことを考える。

私はこれからどうなる?

仕事を継ぐことはまちがいない。

この不便な場所から、配達することになる。

そして今後はたぶん母の足になるだろう。


やっぱり、実家に引っ越して来よう。

そう考えた。夫は何と言うかは分らない。

でも、許してもらおう。


何が何でも、実家に引っ越してくる。

そんな気になっていた。


自宅に帰ると、さらに人が増えていた。


父は、7人兄弟の6番目だった。

母は4人兄弟。

だから、兄弟が家族を連れてくると、大人数である。

私たちのイトコも、たくさん来ていた。


地方から父のすぐ上の兄に当たる叔父が駆けつけた。

父に駆け寄る。

どういう風に、長男の叔父から聞いてるのかは私は知らなかった。

叔父は、父の顔を見て絶句した。

「なんで、こんな・・・。」

今まで誰も言わなかった言葉だったが、誰も答える事が出来なかった。


皆お悔やみに来てくれた人は、父の顔を見て何も言わずにそれぞれ、

親類の輪に入ったり、母に声をかけたりしていた。

父が一人でいることはあまり無かったが、いない時を見計らって、

そっと、顔をめくって、父のおでこや頬に触れた。

死体、確かに死体なんだけど。冷たいし。

でも、実感がつかめないでいた。


母方のいとこと、いとこの子供達は、娘を引き受けてくれた。

娘は引っ込み思案で、人見知りが激しい時期だった。

それなのに、こんな人の多い場所で、いくら顔見知りとは言え

普段会わないイトコの子供たちと一緒に遊んでいた。

今から考えると、私のただならぬ雰囲気を感じ取っていたのだろう。

私自身、この時は本当に子供まで目が届いていなかった。


やがて、父親を自宅から隣の公民館へ、移す時間がやってきた。

父親は浴衣から、お遍路さんの格好に着替えることに。

「皆さんで、着せてやってください。」と、足袋やわらじを

葬儀屋さんは渡してくれ、主に父方の叔父達が履かせていた。

その時に葬儀屋さんの配慮で、口の辺りまでに白い布をかぶせていた。

さすがに、舌が出っ放しではと葬儀屋さんが配慮してくれたのか、

誰か身内が指示をしたのかは分らなかったが、

母親がすごく気にしていたので、ちょうど良かったかな、と考えた。


私自身は、あれだけ忘れ物が無いように気をつけていたというのに、

喪の和装の草履を忘れていた。

もう取りに買える余裕もなく、叔母に借りる。

葬儀の間はほとんど室内だから大丈夫。

そう考えるが、シッカリ気を持っているようで動転していることに気づく。


今年はまだ、クーラーを全然使用していなかったのに、

やたらと蒸し暑い気がした。

人が多いから?そう思いながら。

父が式場に移ったことで、家も急にしーんとした。

人気の無くなったリビングで、父の定位置に

父のお気に入りのタバコと、灰皿。

たいてい、窓際のその場所に座って、

最近では実家に帰るたび父の膝には娘が座っていた。


そういえば。

先週の土曜日、私たち家族は実家に泊まりに来ていた。

土曜日は、夫婦で大阪市内まで買い物に出かけ、

娘を実家で預かってもらっていた。

一日出かけて散々買い物をして帰ったが。

父の目にはどう映っていたのだろう?胸が痛む。


そして、泊まった翌日の日曜日は調子が悪いからと、

父はご飯の時以外は2階で寝込んでいた。

よく考えれば、一人で部屋にこもりきるなんて事、

今まで無かったのに。

孫が来ていたのにふさぎ込むなんて。


何も私たちは気づいてあげられなかった。

しんどいんだから、そっとしておいてあげよう、なんて言ってた。

あの時にもう少し父の異変に気づいていれば、

次の日の月曜の晩に自殺するなんてこと、防げたのだろうか?


今でも、鬱病はかまってあげる事が大事、なんて記事を読んだりすると

このことを思い出す。

あの状態は鬱病だったのでは?

自殺者に、鬱病は多い、とも聞いたことがある。


何で言ってくれなかったの?

今も問いかけている。


お通夜の時間が近づいていた。