↑こちらの日記から続きます。

 

また、今回の聖書学習は、

↑こちらの続きになります。

 

みなさんこんばんは、

 

本日も幻想郷・霧雨魔法店内の聖書サロン、CLASS・M(クラス・エム)にお越しいただきまして、ありがとうございます♪

 

僕はこのサロンのマスターを務めております、幻想郷の白い伝道師、守宮聖人(もりみやまさと)です

魔理沙「よう! 今日も会いに来てくれてありがとな。

 

私は霧雨魔法店の店主、いつも元気な人間代表の魔法使い、霧雨魔理沙さんだぜ☆

 

さてコンガラさんたちと、夢幻館のみなさん、寺子屋でのイースターエッグとイースターボンネット作りの体験はいかがでしたか?

 

幻月「そうね。

 

なかなか楽しかったわ♪

 

夢月と一緒に作ったイースターエッグを見せ合って、子どものように笑いあえたなんていつ以来かしら?」

 

夢月「そうね♪

 

イースターボンネットも、日曜日にはしっかりかぶって参加させてもらうわね♪」

 

小鈴「お2人が童心に戻ったような気分になれてなによりです♪

 

その童心にかえったような心は、聖人さんいわく、とーっても大切なことなんですよ♪

 

そうですよね、聖人さん?」

 

はい♪

 

マタイの福音書19章13節から15節でも、

 

『そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、子供たちが連れてこられた。 ところが、弟子たちは彼らをしかった。

 

しかし、イエスは言われた。 「子どもたちを許してやりなさい。 邪魔をしないでわたしのところに来させなさい。 天の御国はこのような者たちの国なのです。」

 

そして、手を彼らの上に置いてから、そこを去っていかれた。』マタイの福音書19章13節から15節より

 

そう書いてある通り、童心のような純粋な心を持っている方ほど、天の御国に入るのにふさわしいとイエス様も言われているのです。

 

フラン「だから日曜日はもっと子どものように純真な心でイースターを楽しんでね♪」

 

エリー「わかったわ♪

 

幻月様も夢月様も童心のように心から笑顔になれたなら、私たちも童心のような笑顔でイースターを楽しめるようにしなきゃね♪」

 

くるみ「ええ♪

 

日曜日は楽しみにしているわ♪」

 

コンガラ「ただ、その前にそんなイースターの喜びを迎える直前のかなり重苦しくなる話をしっかりと学んでいかないとな」

 

サリエル「・・・そうだな・・・

 

イエス・キリストの受難の学習の続き、しっかり気を引き締めて聞かねば・・・」

 

・・・まぁ、そこまで緊張感は持たなくても、終わるころには感動の涙を流したり、流しそうな気持ちになると思います。

 

幽香「まぁ、しっかりと今日、イエス・キリストがどんな気持ちで十字架に架かって死と罪を打ち破りにいったのか、しっかり聖人の説明を聞きましょう。」

 

ありがとうございます。

 

では今日はイエス様が十字架で苦しまれた3つの苦しみのうちの残りの2つを学習していきましょう。

 

2.精神的苦痛

 

2つ目の苦しみは、精神的な苦しみでして、十字架刑とは、見せ物にされて、辱められながら、殺される、ということでした。

 

キクリ「な・・・何だかもうこれを聞くだけでも、惨さを感じるのですが・・・」

 

・・・そうですよね・・・?

 

実際にイエス様も、イエス様を処刑させようと仕向けた祭司長や律法学者をはじめとしたパリサイ派とサドカイ派のユダヤ人だけでなく、イエス様が祭司長たちに捕まる直前まではイエス様のことを慕っていた多くの群衆に罵られたり、罵声を大波にかかるよりも多く浴びせられながら鞭で打たれ、手足を釘で打たれ、わき腹も刺されたりと、無残なお姿を多くの人々にさらし者のように見せしめられたのです。

 

シンギョク「う・・・うわぁ・・・」

 

その光景はまさに『公開処刑』

今でこそ誰にも見られたくないような恥ずかしいことを不特定多数の人々に見られさらされるという意味でこの言葉が使われることが多いですが、

当時はまさに文字通りだったのですね。

 

さらに肉体的苦痛のところで、裸の状態で炎天下にさらされたとご説明いたしましたが、イエス様が十字架に架かられている時のお姿は、絵などでは腰のおおいだけがまとわれている状態で書かれていることが多いですが、

実際にはその腰布すらない一糸も纏わぬ素裸だったそうで、僕らだったら恥ずかしいという気持ちだって大いに出てくることでしょう・・・そしてそれも含めて十字架の磔刑は、あざけられながら死ぬのです。

 

もし病などで危篤状態となり、もう天からのお迎えがやってくるのも時間の問題ともいえる死ぬ時くらいは、静かに、愛する者達に見守られながら死にたい、と思いますが、

 

ところが、イエス様が十字架に架かっている時は遠くでイエス様に仕えていたマリヤたちが遠くで見つめていたかもしれませんが、そもそも捕まったときに弟子たちは脱兎のごとく逃げ散り、まさにほぼ四面楚歌状態。

 

十字架による磔刑は、受刑者の最後の願いをも、奪ってしまうという意味で精神的にも残酷な処刑方法ということなのです。

 

オレンジ「・・・そりゃあ、今だったらそんな処刑方法なんて採用してたら物議になるそうよね・・・」

 

おっしゃるとおりです。

 

・・・イエス様は、十字架を取り巻いている人々を、愛し、救うためにこの世に来られました。

 

それなのに、人々はせっかくの救い主の愛を拒み、イエス様を受け入れず、『十字架から降りてみよ』とあざけっているのです。

 

自分が愛している者からも見捨てられるということは、どんなにつらいことでしょう。

 

ここまでの仕打ちを受けられれば、祭司長たちや群衆たちを恨んで、孫子の代まで呪ってやりたくなってもおかしくありません。

 

ですが、34節イエス様はこう祈られていました。『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』

 

シンギョク「・・・なんということ・・・

 

恨んだりするどころか、祭司長たちの罪をも赦されるように祈られていたのですか・・・?」

 

はい、そういう事なのです。

 

僕らも日々生きている中で、『何をしているのか自分でわからない』ままで、間違いを平気で犯します。

 

今回の祭司長たちのようなことは断じてしないと思っていても、ほんのちっぽけな悪いことでも、それが何度も積み重なれば、祭司長たちのような大きな罪にも相当するようになる、これが罪の恐ろしさです。

 

そして、は、そんな何度も大きかれ小さかれ、罪を犯し、くり返す私達の弱さ、愚かさを全てご存じで、愛していて下さっているのです。

 

ちなみに群衆や祭司長たち十字架に架かっているイエス様に向かって、『十字架から降りてみろ』とイエス様に何度も口撃をしますが、イエス様は十字架から降りて来ようと思えば、降りてくることは秒で出来るくらいお手の物ではありました。

 

ただ、これもイエス様が祭司長たちを始めとした罪深い人々の罪や死の呪いを打ち砕いて、永遠の赦しと命を取り戻させるために自ら十字架に架かっているのです。

 

3.霊的苦痛

 

最後の苦痛は霊的苦痛です。

 

エリス「れ・・・『霊的苦痛』・・・?」

 

はい。

 

僕は、聖書を通じて人間の本体は肉体ではなく、そのさらに奥にある霊体が本体であると何度も説明してきました。

 

先に霊的苦痛とはどういうことなのかを説明しますと、この十字架の磔刑で、イエス様は、父なる神、主から捨てられ、断絶をされた

すなわち、子なる神、イエス様が主から捨てられ、断絶されたことでその永遠の愛の交わりが切れてしまったということです。

 

これが霊的にもイエス様は十字架による磔刑を受けられることによって、この世界の人々からだけではなく、主からも見捨てられ、『完全なる孤独になってしまった』ということです。

 

改めて申し上げますが、イエス様は、十字架に架けられるような罪は何一つありませんでした。

 

しかし、イエス・キリストは、罪人とされました祭司長たちに捕まり、理不尽な罪状に問われ、罵られ、鞭で打たれ、着ぐるみをはがされ、手足を釘で打たれ、わき腹を刺され、極めつけは自分をこの世界に送り出してくださった主からも見捨てられ・・・

 

いや、むしろこの処刑の全体的な流れは全て、主がご計画されたことでもあります。

 

イエス様形だけ、罪人になったのではありません実際に、罪人となったのです。

 

私達の罪を全て、ご自分の罪として引き受け、その処罰を受けたのです。

 

その処罰とは、見える所では十字架という事でしたが、見えない霊的な世界では、それは、父なる神様から捨てられ、断絶された、ということでした。

 

子なる神様イエス・キリストが、父なる神様から捨てられ、断絶した。その永遠の愛の交わりが切れた、ということは、実は僕ら人間には想像も出来ない巨大な霊的苦痛がそこで味わわれたということです。

 

ここでマタイの福音書27章45節と46節をお読みいたします。

 

『さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。

 

三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。 これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。』マタイの福音書27章45節から46節より

 

主との約束では、この処刑の時だって、苦しまずにずっと祭司長たちの罪の赦しのために祈ることに専念するつもりではあったのでしょうが、やはり主との関係性を断絶されたことに関してはイエス様は心の中では大泣きしていたのかもしれません。

 

僕らはあらためて、日々犯してしまっている罪が、このような悲劇を生みだしているということを覚え、罪を悔い改めるようにする心を忘れないようにしないといけませんね。

 

ここで、1曲お聞きいたしましょう

 

この曲は、昨年のクリスマスイブ、僕が正式にイエス様に従事する者となるための受洗に前に歌った讃美歌でして・・・

 

魔理沙「ああ、お前が歌っている途中でめっちゃ泣き出して上手く歌えなくなったっていう・・・」

 

霊夢「魔理沙、余計なこと言わないの!」

 

・・・コホン・・・

 

まさに今回の聖書箇所を学ぶイエス様がいかに僕らを救う為に、身代わりとなって三重・・・いや、それ以上の苦を背負われて、命を捧げた後に蘇られたことによる僕らの罪深さ、その罪に対する永遠の赦し、そして罪の代償として僕らにかけられた死の呪いを打ち砕き、永遠のいのちと救いを証明、与えられたことを実感できる感動的な1曲、

 

Jworship(ジェイワーシップ)さんで、『主イエス神の愛』

 

 

♪♪~

 

主イエス 神の愛 十字架に命捨てた

 

主イエス 神の子羊 永遠の赦し与える

 

 

いま受け取ります あなた愛と あなたの赦し

 

いま受け取ります 永遠の救いと いやし

 

命にあふれ祈る 全てを捧げます主よ 

 

全てを捧げます主よ

 

~♪

 

 

シンギョク「・・・

 

確かに癒される曲ですね・・・」

 

魔理沙「というか聖人、今回もお前ちょっと泣きそうだったぞ・・・?」

 

・・・魔理沙、あなたはもっとこの曲をはじめとした讃美歌に感動できるようになりましょうね・・・

 

さてみなさん、今回はかなり精神的にダメージが出る箇所を学習いたしましたが、今回の箇所は改めて申し上げますが、イエス様が全ての罪、死、さらには生贄の身代わりとなり、この3日後に復活され永遠の罪の赦しと命を証明されるための大きな準備に相当することになります。

 

日曜日その復活に関する箇所をまた皆さんで学んで、その後幻想郷の皆さんと一緒にイースター、復活祭を楽しみましょう♪

 

キクリ「はい、楽しみにしていますね♪」

 

さてみなさん、本日の日記はいかがだったでしょうか?

 

魔理沙「この日記が勉強になったり、参考になったり、少しでも面白いと思ったら、是非、いいねとフォローをして『CLASS・M・ate(クラスメイト)』になってくれると嬉しいのぜ♪」

 

またこの日記でぜひ取り上げてほしいことも随時募集をしております。

 

ぜひコメント欄でリクエストしてくださいね。

 

魔理沙「これからも私たちと一緒にいろんなことを学んでいこうぜ♪ そしてコメントやリクエストも楽しみに待ってるぜ♪」

 

それではまた次回もお会いしましょう!

 

魔理沙「まったな~♪」

 

Masato Morimiya 

 

使用立ち絵:はるか様・dairi様(https://seiga.nicovideo.jp/seiga/im3189645)(https://www.pixiv.net/users/4920496