「いざ、相鉄線!沿線鎌倉さがし」の続きです。
旭区役所から鶴ヶ峰駅方面へ向かうとこの遊歩道があります。
鎧の渡し緑道といいます。
昔、私が子供の頃はここに帷子川が流れていて、その跡が遊歩道になりました。
この鎧の渡し緑道の突き当り、旭区役所の裏側にあるのが
鎧の渡しと
首洗い井戸です。
帷子川を渡るのに武士が鎧を頭上に上げて渡ったことから鎧の渡しと言われました。
そして、首洗い井戸、というのは畠山重忠を討った後、その首を洗った井戸がここにあったそうです。今はその井戸はなく跡地として伝えられています。
畠山重忠公遺烈碑です。
明治25年、当時の二俣川村の有志が畠山重忠を偲んで建てたそうです。
ここでもスタンプポチっと。
この辺りの地名は万騎が原(まきがはら)。
そう、以前に説明した、北条義時ら幕府軍が陣取ったのがこの辺り。
万を越えるくらいの大軍だったことから「万騎が原」と後に呼ばれるようになりました。
ちなみに付近の相鉄線南万騎が原駅には
万騎という由来から馬のモチーフがあります。
相鉄 公式@sotetsu_group相鉄線 南万騎が原駅の駅名の由来をご存知ですか?かつて、畠山重忠と北条義時の軍勢が壮絶な戦を繰り広げた際、この辺りに北条氏が数万騎の陣を構えたことから「万騎が原」の名が付いたとも伝えられています。 これにちなみ、駅名看板の裏側に馬をデザイン。ここにも“鎌倉”が。ぜひご覧ください。 https://t.co/Uum7l3NKZp
2022年08月17日 17:16
そしてその後坂を下っていくと
ここでもスタンプ。
畠山重忠は北条時政の命で討たれてしまうのですが
元々は舅と娘婿の関係。
二俣川の戦いよりも以前に北条時政と畠山重忠はこの大池で炊き出しをしたという言い伝えがあるそうです。
「畠山重忠の乱」の事の発端は畠山重忠の息子重保と、別の北条時政の娘婿平賀朝雅が京都で喧嘩になったことがきっかけですが
武蔵国へ勢力を伸ばしたい北条時政と、武蔵国に大きな領地を持つ畠山重忠との関係性が悪化していたという背景もあるそうです。
それに北条家の後継問題・主導権問題も絡んでいたりするそうです。
わずか130騎余りで鎌倉に向かっていた畠山重忠は北条時政が言うように謀叛を起こそうとしていたとは考えられないと、重忠の首を持ってやってきた北条義時は時政に詰問します。元々義時は重忠を討つ事に反対していましたから、謀叛をでっち上げた時政夫妻に不信感を持つようになります。
この事件で北条義時・政子と北条時政・牧の方の関係が悪化。その後平賀朝雅を将軍に擁立しようとした北条時政・牧の方を鎌倉から追放し、義時・政子が鎌倉幕府の実権を握ることになります。
いずれにせよ、そう遠くないうちにこの戦が「鎌倉殿の13人」で描かれると思いますので、どのように描かれるでしょうか。
「坂東武者の鑑」らしく畠山重忠の最期が華々しくもあっぱれなものであったらいいなと思います。
もしかすると番組末の大河紀行で今回訪れた場所が紹介されるかもしれませんね。今後訪れる人が増えてくれたらいいなと思います。
畠山重忠が大河ドラマに登場して人気となり、ゆかりの地(といっても終焉の地なので複雑ですが)が地元のわたくしとしては嬉しい限りです。
そして、元々中川大志さんのファンが畠山重忠ファンにもなり、ブログやTwitterなどで情報交換もするようになってきました。今後の中川大志さんの活躍も陰ながら見守りたいなと思います。
というわけで13個中9個のスタンプをゲット!
他の4つは後日に回りたいと思います。
今回の歩数。所要時間は2時間半ほどでした。