朝から心が締めつけられています。いったい何年こんな不条理が続くのでしょう、逃げ場のないこの暗闇の世界。何億もの人が日々心を痛めているのに、どうにもならない。しかもここまで傷ついた国に利権を狙っている大国がある。

 

 一挙にミサイルもドローンも撃ち落とせる迎撃システムを、どうしてもっと配備してあげられないのですか。脅すならもっと別のものを脅すべきでしょうに。なぜ日々何人もの死を見過ごしにし、手をこまねいているのですか。人命が、人の死が、こんなに軽く扱われた時代はそれほど多くありません。たとえそんな時代があっても、その命を愛おしみ、隙あらば、何らかの手立てをしたいと考え、無数の良心による抵抗が散発的であってもなされてきました。だが今、それが静まり返っています。どうして!

 

 こんなに命は軽かったのですか。こんなに人間ははかないのですか。人は皆、風前の灯火のように存在しているのですか。「命は鴻毛(こうもう)より軽し」とは、こんな事態を目撃した古代人の言葉ですか。命は軽いチリとして潰されています。どこにも人の尊厳など見当たりません。戦争、紛争、憎悪、トラブル、暴力、侵略、攻撃……。話し合いの拒絶、力の支配、権力誇示、増長、権威、権勢欲……。空腹、飢餓、食糧不足、医薬品不足、電力不足、光不足、ポピュリズム、フェイクニュース、決められない政治不評、不満……。家が潰され、幼い子が潰され、心が潰され、平和が潰され、精神が潰され、家庭が潰され……。人間と文化自体、人類が到達した価値観が潰されている。

 

 人間はいないのか。真の人間はいないのか。人類を守る人はいないのか。人の良心を守る人間はいないのか。いったいどこにいるのだ、人間の心を持った人間は。

 

 「神を知らぬ者は心に言う。「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。神は天から人の子らを見渡し、探される。目覚めた人、神を求める人はいないか、と。」(詩編53編)

 最近は料理に身が入らない。リブロースやブリの照り焼き、主夫の特製ピザやタイの煮つけなどは得意中の得意になっていたが、最近それらを作る回数が減少していると感じます。最大の理由はひとしきり料理というのはこういうものだと分かって、やや飽きてきたからかもしれない。で、何時間もかけて凝った料理を作らなくなり、新しい創作料理に挑戦しなくなって、作ってもせいぜいおいなりさんやオレンジピールといったところだ。

 

 それに、奥方さまも主夫の料理にあまり乗ってこないのである。今や私は作る人、奥方さまは食べる人との住み分けが決まってしまったらしく、この住み分けの固定化も一因かも知れない。というのは、スマホのラインの返信や新聞に夢中で、振り向きもしないで「夕食はまだ?」とヌカス。それだけでなく料理が出来上がろうとしているのに、今からパソコンを開こうとしている。やがてテーブルに全品揃ってしばらくたち、「冷めるよ!」と言ってもどっしり椅子に座ってパソコンから顔を上げない。

 

 倦怠期というのは何年目ほどに訪れますか。結婚後1年とか、3年とか言いますが、確かに私が新米主夫を始めて3年になろうとする今、今や料理の倦怠期を迎えているのでしょうか。ただ主夫側からすれば、たとえ飼い犬であっても、何年たとうがシッポを振りつつ、しびれを切らして食事を作ってくれる人を見あげて待ち焦がれているではないか。あるいは、ご飯を待てずに時々お座りしなおしたり、また立っては座ったりしながら、時々舌なめずりもして、「クーン、クーン」とか甘え声を出しつつ待てないそぶりを見せて待っているではないか。犬を例に出して心苦しいのですが、せめてそのような甘え声を出して待つ奥方さまであってくれればかわいいものだと思うのは当たり前でないかと、思うのであります。

 

 世の主婦の皆さん、皆さんの愛するご主人さまの態度はいかがですか?今晩からしばらくその様子をご覧になってください。

 

 「シオンの食糧を豊かに祝福し、乏しい者に飽きるほどのパンを与えよう。」(詩編132編)

 

 

 

 世界の人たちは今、平和を切望しています。ロシアの人たちもおそらく平和をお望みでしょう。

 

 人々と談笑し、誰もがささやかな喜びを抱き、何の警戒もなく子育てし、落ち着いて日々の生活ができること。

 

 ドローンやミサイルが飛ばない平和な日常。寒波の時も暖かい暖房が入る断熱材のきいた住宅、一日3食の安心していただける食卓、爆撃で死なない子どもら、空襲警報で中断されない学校の学び、誰も住めない蜂の巣のような街でなく、車いすの青年もシルバーカーのお年寄りも自由に外出できる街。

 

 戦争をしてどこにメリットがあるのでしょう?誰が破壊した街を、不可欠なインフラを、そして何万人もの死んだ人たちを復旧させますか?お国の青年たちは命を失っていませんか?家族らは嘆いていませんか?無数の悲しみと涙の前で何が楽しいのですか?

 

 あなたもノーベル平和賞を貰いたいのですか?それともノー平和賞ですか?後世に名を残したいのですか?このままではロシア史にも人類史にも汚名を残しませんか!21世紀の悪名高き人間の一人として。

 

 この戦争は地球環境にダメージを与え、環境を汚染し、国際秩序をずたずたにし、温暖化の速度を速め、地上の膨大な数の人らを不安に陥れています。いったい、あなたの存在によって、人類にどんな益をもたらしたのでしょう。

 

 あなたの存在の意味はいったい何でしょう?このままだと、あなたがやがて死を迎えるとき、全世界の人らは手を叩いてスタンディング・オベーションで喜び、手を取って歓喜のダンスするでしょう!

 

 ……私は以上をトランプにも、ネタニヤフにも言いたい!

 

 「神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。」(ローマ1章)

 

 

 ウオーキングで行く丘の陰に銀杏の大木の切り株があります。どうしてそれが伐採されたのか残念なのですが、その大木があると辺りが鬱蒼としすぎるからかもしれません。ところが先日そこを通りかかると、切り株から10数本の蘖(ひこばえ)が育っていました。銀杏の生命力は知っていましたが、これほど沢山の蘖を見かけたことがありません。私は蘖が好きですから、思わず立ち止まってしばし思いにふけりました。

 

 青年時代の知人たちの消息を知ると気が重くなることもありますが、世界を新しく見直すきっかけにもなります。競争社会で生きてきた私たちは、ややともすると競争心が心の奥深くに沁みついていて、知人のその後の歩みを妬ましく思ったり、社会の理(ことわり)が解せなかったりして、悩ましくなったり、自然と心が遠ざかったりすることがありますが、そこは心広く、公平な見方を持ち続けていくと、これまで自分の目にはよく見えなかった世界が見えてくるものです。

 

 で、自分の近い身内ではよもやそんなことは起こらないのですが、最近青年時代の知人らのその後を知って人生の妙を楽しく味わっています。

 

 ある知人の息子さんは、植木職人を継いで立派な樹木医になって人々から信頼を得、自然保護が広がる現代社会の中で活躍していますし、別の知人の娘さんは、古代の日本画や壁画の修復に携わる中、ご自分も次々と素晴らしい日本画を発表しています。古代から学んだ新しい画法などが、今後一世を風靡することになるかも知れません。楽しみです。

 

 また孫の時代になると、別の知人のお孫さんは、中学時代は不登校で親を悩ませ、本人も落ち込む何年間でしたが、ある人との出会いから地方の高専に入ってめきめき頭角を現し、ある分野の研究発表で若くして一流の研究者たちから注目され始め、飛び級でさる有名大学の大学院に引っこ抜かれて研究を続けています。高専時代に海外にも行って研究をしていたようです。おそらくその分野は、素人目にも非常に広い分野にまたがる学際的なものがあるので、彼はそうした一流の研究者として今後国際的に登場するかもしれません。

 

 これまで私の目に映った世界は決して広いものではありませんが、親が優秀だから子どもも優秀であるとは必ずしも言えないことです。たとえ両親ともに優秀であっても、子どもはあまりパッとしない仕事に就き、親のすねをいつまでもかじっている場合だってあります。ところが勉強はろくにできなかったのに職人としての腕を上げ、周りから一目置かれている人もあります。また子ども時代は冴えていたのにいつの間にかずり落ち、ずり落ち、さらにずり落ちでしまう場合だってありますし、一歩一歩地道に肉体を使って階段を上っているタイプもあります。

 

 私たちは少し長く幼児教育に関わりましたが、幼児時代の姿は決して大人になってからの姿を現しているとは限りません。もちろん小さくして頭角を現す者もありますが、ある些細なことがその人を見事に変えていく場合もあります。ただ言えるのは、「努力は成功の母」という金言は万国、万民、いつの世でも通じるでしょう。そういう習慣を小さい時から身に着けることは、人生の秘訣です。親の子どもへの遺産は、お金の遺産を多く残すことより小さい時から努力する習慣をうまくつけてあげることだと言って過言ではありません。1日に1つの石を積み上げていく人間は、やがて60年、70年後にどれほどのものを積み上げることになるか、想像を超えたものがあります。1日に1つです。

 

 「蟻には首領もなく、指揮官も支配者もないが、夏の間にパンを備え、刈り入れ時に食糧を集める。」(箴言6章)

 

 

 日本は今、どういうところまで来ているのでしょう。富士山なら5合目、7合目、あるいはまだ3合目くらいにいるのでしょうか。もちろんこれは経済の回復度のことか、難民の受け入れ数のことか、また離婚率のことかで答えは違ってきます。私が今書き出したのは、戦前の日本への復帰度、その程度のことです。

 

 その目安を硬い表現で言えば、「日本の国旗を損壊したり汚したりした場合に刑事罰を科す日本国国章損壊罪(国旗損壊罪)を新設する」というところまで来ていると言っていいでしょう。今回はさすがに自民党内でも異論があって通常国会に提出しないようですが、鼻息激しい高市は以前からその成立を悲願とし、日本維新の会も同じ姿勢なのです。

 

 ここには、国旗を踏みつけたり破いたり、日の丸を恭しく取り扱わない者を厳しく取り締まろうという、戦前を思わせる取り締まり国家の再来がにじみ出ています。しかもその取り締まりの風潮はあちこちに出ていて、この元旦の「東京新聞」の新年コラムが、ネット右翼の攻撃で、遂に全面削除させられるに至りました。こうした言論の取り締まりと統制がじわじわと国民を縛りつつあるのが、日本の今、と言っていいでしょう。

 

 むろん言論は客観的でなければなりません。ただ最近の風潮は、誰が言っているのか分からない闇討ちのようなネット言論であふれているということ。これは不気味で怖いです。対面では言わず、名前を明かさず語るのは実に卑怯ですが、それがまかり通っているのです。そしてもしこんな卑怯が許されるなら、将来非人間的な世界が来るのは間違いないでしょう。また、今は自由に言わせておいて、自分が政権を取れば、戦前に回帰して厳しい言論弾圧をするかもしれないのが見え隠れしています。これが現今の日本であると私は見ています。

 

 「今は、人間が人間を支配して苦しみをもたらすような時だ。」(コヘレト8章)