いつまでも胸に抱いて我がものにしたい町、スイスのバーゼル。

 

 むろん独り占めにできませんし、誰かが独り占めにすればその素晴らしさが一挙に色あせてしまうでしょうが、旧市街を中心にカラフルで個性豊かな建物たちのたたずまい。魅力的な建物の宝庫です。いや、ハード面の凝った建物だけが魅力なのでなく、そこに落ち着いて暮らす人々と調和している絵のような街です。また街を縫うように走る幾つもの路線の特色ある市電は、乗るだけでテンションが高まります。ゴシック式の赤い砂岩で建てられた大聖堂ミュンスター、同じ砂岩を使った市庁舎ラートハウスの魅力的な建造物が、現代建築家たちの建物に混じり、溶け合って、眼を見張る異色な景観を呈しているので、どの街角に立っても一幅の絵になります。またバーゼル大学の建物が町中のあちこちに分散して市民の中に大学が溶け込んでいます。多くの画家、建築家、思想家が、中世から続くこの町を愛したのも当然でしょう。

 

 昔バーゼルを訪れたのは、ここが親しんだ思想家の街であるだけでなく、この町はスイスの町であるだけでなくフランスとドイツの町であり、ライン川の中州の先にヨーロッパ主要三か国の国境が一点で接し、変わり者にあり勝ちですが、そこに立ってみたいというので行ったのでした。ところがそこに行って笑顔になりました。世界には同種の変わり者らがいるもの。カップルで、一人で、訪れる人らが結構いたので、すっかり気をよくしました。こんな自分でもいいのだと自信が湧きました。

 

 バーゼルのことを書こうと思ったのは、このことでなく、大聖堂の裏手は高い見晴らし台になっていて、眼下にライン川が悠々と流れ、三国の国境を見に行った帰りに対岸の岸辺を歩いていて、日本で聞いたことがなく旅行ガイドにも書かれていない思わぬ光景に接したからです。

 

 ライン川はスイス・アルプスの大氷河を水源にして、流れは急で、夏でもなかなかの冷たさの上、水深が5,6メートルはあるでしょう。水量が多く滔々と流れるライン川を、数10人、時には100人程がバラバラに上流から泳いで来るのです。泳ぐというより流されて来ると言った方がいいでしょう。目の前の一群だけが泳いでいるのでなく、次から次へと途切れることなく、若者たちも中年も、中には80代の老婦人も混じって、女性も男性も、数人で、1人で、三々五々、バラバラになって、上流から流されながら3キロ程を下流まで泳いでいるのです。むろん皆が皆、泳ぎが上手ではないでしょうし危険でもあるので、大半はヴィッケル・フィッシュというバーゼル発祥のゴム製浮袋に捕まっています。その浮袋がまた変わっていてカラフルな金魚型なのですが、泳ぐ前に袋に自分の衣類をすべて入れ、その口を堅く縛って浮きにして泳いでいるのでした。それは、それは、魅力的な素晴らしい光景でした。これが砕けたバーゼル人の暮らしに根づいた遊びの魂だと思いました。遊泳料など一切ナシの、誰でも楽しめる遊びでした。

 

 岸辺には、今泳いで来た水着姿の女性や男性らが浮袋をもってベンチに腰掛け、ビールを飲んだり、日向でおしゃべりして一仕事を終えた満足感で疲れを癒しています。15世紀にはライン川沿いの修道院のシスターたちがすでに泳いでいたのです!近代に生活排水問題で遊泳禁止になりましたが、40年程前に汚水問題が解決されバーゼルの夏の風物詩になったのです。

 

 街を悠々と流れる大河の楽しみ方の醍醐味を知るバーゼル人に、私はすっかり魅了させられました。もっと泳ぎが上手になっておけばよかったと後悔していた時、小憎いことに、初心者向きのコーチつきの日程さえ市のスケジュールに組まれていました。汚物や死体が流れて来るガンジス川と違い、悠々と流れる冷たいライン川に身を沈めれば煩悩解脱、少しの悩み事など吹っ飛んでしまいそうでした。旅行の楽しみは、その地の人と出会い、文化の違いで驚きを覚え、大いにインスピレーションを与えられることにあるのかも知れません。

 

「彼が一千アンマを測ると、もはや渡ることのできない川になり、水は増えて、がなければ渡ることのできない川になった。」(エゼキエル47章)

 

          8月21日

 

 

 温暖化の影響で海水温が上昇しているらしく、台風が思いがけないコースを辿るようになった。先週の台風は小笠原から八丈島を通り、千葉の沖合を通って去って行ったので被害はあまりなかったが、もう少し西に寄っていれば19年の台風のような被害を房総に出したかもしれない。

 

 台風一過、昨日は実にいい青空を見た。私は稲穂の上を飛ぶジェントルマンのようなギンヤンマのグリーンとブルーが好きだが、夏空が澄んで郷愁を誘うしびれるようなブルーであった。今日、18日の夜はまだ蒸し暑いが、13夜の月がくっきりと空にかかっている。あと1か月すれば、9月18日は中秋の名月を迎える。

 

 昔、中秋の名月を彦根城の玄宮園で見たことがある。名月に照らされた名園は、それは、それは幽玄で素晴らしく、無趣味な私でも詩情を抱いて妻とうっとり池の周りをそぞろ歩きしたものである。ただあの時は震えるほど寒く、風邪を引かないかと案じてゆったりと月を愛でる余裕がなかったのを覚えている。もう1カ月もすれば、昼はさわやか、夜は長袖を着こむ秋の日々が来るのだ。

 

 あとひと月。そう思うとうだるようなこの残暑も何でもない。その頃になれば、過ぎ去った暑すぎた夏の思い出が懐かしく思い出されるに違いない。

 

 そうだ。このうだるような暑さの中ウオーキングに出ると、頭や顔を何度も拭くあまりハンカチが汗でびっしょり濡れて、絞ればポタポタと汗水がハンカチから滴る日々であるが、明日もウオーキングに出かけよう。川の畔の歩道を歩き、市街地のコンクリートの舗道を学生らを縫って進み、花屋、めがね屋、腰の曲がったおばあちゃんの豆腐屋、腹がデンと出たラーメン屋、腕自慢の中華飯店、ラーメン専門店、エステとネイルサロン、一杯飲み屋、すし屋、餃子専門店、小料理屋、客を呼び込むトルコ人のケバブ屋、たい焼き屋などを見ながらJRの踏切を渡り、日陰を極力選んでやがて中央図書館にたどり着く。小1時間読書した後、森を抜け、高台をくだって再び川の畔を縫うように歩いて、約6キロを歩きに行こう。朝の用事と合わせれば10キロ程になる。おいしい料理を今日も妻のために作り、季節にあった食材を求めて買物にも精を出し、むろん洗濯やカンカン照りのベランダの植木や花々の水やりも怠らず、中秋の名月の日に、夏にしか味わえない玉のような汗をびっしょりかいた今年の日々が懐かしく思い出されるように、今日という日を生きよう。

 

 「一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」(マタイ7章)

 

       8月18日

 

 

 

 

 

 地下鉄を降りて暑い地上に出たが、少し急いでいたせいか出口を間違えて内堀通りの右側に出たらしく、靖国神社側に来てしまった。引き返そうとしたが、しばらく先の神社入口の手前に歩道橋があるのが見えたので、あそこで反対側の舗道に渡ろうと10数年ぶりに靖国方面に向かって歩き出した。今日は8月15日。特別な日で、早朝だがもう人が多く出ている。

 

 近づくと、「私たちは犯罪者ではない」と大書した大きな看板が眼に飛び込んで来て、度肝を抜かれた。「私たちは戦争犯罪者ではない。私たちはお国のために、まじめに聖なる聖戦を行なったのであり、ここにお国のために身を捧げた聖なる尊い御霊がまつられている。我が国に聖戦を行なうように仕向けたアメリカ軍にこそ責任がある」という論法らしい。そう急に一刀両断に言われても、あまりの論理の飛躍に八の字にひげを生やした恐い人の顔が目の前にちらついてしまうだけであった。

 

 坂の上に厳めしく立つ靖国神社の巨大な大鳥居が目いっぱいに近づいてくるこの辺りは、普段でも何か不気味で、いかめしさと恐ろしさで殺気を覚えて身が引ける場所である。私が初めてここに立った数10年前も殺気で鳥肌が立ったものだ。とりわけ8月15日の今日は靖国の厳めしい応援団にとっては特別な日である。

 

 ここ数年鳴りを潜めていた閣僚らも、2024年は総裁選があるというので多数参拝して名を売ろうとするらしく、日本維新の会の何人かも参拝する様子らしい。タカ派の面々がどういう人物であるかが、今日の舞台で出そろうに違いない。

 

 反対の舗道にわたって千鳥ヶ淵に沿って木陰を歩き始めたが、今年はあまりにも暑くてウオーキングする人も少なく、ランニングする人には遂に会わなかったが、三々五々石のベンチに座っているのは外国人らしい。日本人はあまりの暑さに坐ろうともしないようだ。

 

 さて、今日は毎年朝早くに開かれて来た千鳥ヶ淵戦没者墓苑の平和祈祷会に来たのであるが、入口に着いて驚いたのは、20人程のポリスと私服、係官が厳重に警戒して立ち、先ずは中に入る者らの手荷物検査をし、金属探知機で体を調べ、終わると黄色で目だつ丸のワッペンを胸に貼らされたことであった。安倍元首相のことがあったので警戒に当たるというのであろうが、このようにして少しずつ意識を持つ国民に照準を合わせて管理を強化しつつあるのをひしひしと覚える。

 

 国家はあからさまに国民の心にずかずかと入っては来ない。ゆっくりと巧妙に蛇のように気づかれぬように、もっともな別の理由をつけてこっそりと忍び込んでくるものだ。最終的には思想統制であり、政府への批判を絶対に許さない国づくりである。今日靖国に参拝する閣僚らは、聖戦という正義の御旗をたててやがては国民を総動員したいのであろうが、その僅かな一歩を千鳥ヶ淵の平和祈祷会の入口で目にしたのであった。

 

 祈祷会での話は聞くべきものがあったがそれは別に譲るとして、ここで久しぶりに会った知人から「みどりのふおーらむ」という冊子をもらったので、帰宅途中、空腹もあり熱中症気味になったので、カフェ・ベローチェに入ってサンドイッチとアイス・コーヒーで休憩し、冊子を詳しく読ませてもらった。市川緑の市民フォーラムの会報で、自然を守る取り組みをするメンバーの知人だが、色んな取り組みをしているグループを束ねて機関誌を197号(年6回)まで出している。すそ野が広く市民の中に意識の高い人らがねばり強く働いているのを知り、靖国のことで気が滅入ったが励まされた。

 

 ルーズベルト大統領の墓碑銘にはこう書かれている。「彼は暗闇を呪うことよりも、ろうそくを灯そうとした。そして彼の光と輝きが世界を明るくした。」小児まひで両足の自由を失った重い障碍の身で、彼は闇を呪うよりも、ろうそくを灯そうとしたのだ。これは今日の私たちに励ましを与える。

 

 「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」(ヨハネによる福音書1章)

 

 

 

 

 

 

 

 

 英語を話せない62歳の2人が、1年間イギリスで語学研修しました。20年前の今日あたりは日々アップアップしていました。

 

 日本人の何%が英語に劣等感を持っているでしょう。一部を除きほとんどかも知れません。少なくとも6年間は多くの人が英語を習って来た筈、大学まで入れれば約10年間も触れて来たでしょう。ところが大学を出てもたいてい英語を話せません。ですから外国人が近くに来ると、大学院出の高学歴者でも一歩身を引くのが私たちです。たとえ英語は読めても英語で話せないのです。

 

 私もむろん例外でなく英語が話せませんでした。英語の本があっても日本語で用が足せれば人は安きに流れます。私がそうで、牧師になる大学を出て、始めの頃は英語やドイツ語の本をいつもそばに置いて仕事をしましたが、慣れは恐ろしいもの、次第に外国語から遠ざかって行きました。40代半ばには、特別な外国語は原文で読むものの、英独の本はほぼ読まなくなり、何年も長文の英語を目にすることがなくなりました。だが無意識の中で、英語を話せない劣等感が募っていた気がします。

 

 ある時、日本人女性とカナダ人男性の結婚式の司式をすることになり、メッセージを日本語で書いて彼らに訳してもらい、来日した親族や友人にプリントを配布してもらったのですが、その二人とのやり取りでいかにも英語が話せない牧師への軽視やみくびる態度に接したのです。内心では憤慨しつつ、それを振り払って若い2人と両家に祝福を贈ろうと心を決めていました。

 

 これが主な引き金ではありませんが、その後いろいろと考えることがあり、20年来もっと深く知りたいと夢見て来た「テゼ共同体」を現地で学びたいと切に願うようになり、丁度大仕事も一段落して、私も妻の仕事も後進に託して心配が要らないほどになったので、高校のクラスメイトなど社会では定年を迎える時期に達していたこともあり、思い切って仕事を辞め、いわば自分に1年間のサバティカルを与える形で遊学し、英語世界で語学研修してテゼを学んでみようと、2人は一大決心をしたのです。

 

 当時、海外の各地で別の感染症が猛威を振るい、急遽予定を変えて最終的に決めたのがイギリスのケンブリッジでした。当時その町にEmbassy CESという質の高そうな語学学校があり、62歳の老人2人は大きな荷物を抱えて渡航し入学しました。むろん長期の海外生活は2人共生まれて初めて。

 

 学生はほぼ18歳から23歳。稀に50歳前後の人も短期で来ますが、60代は皆無でした。1クラス15人程で、みな意欲的で心身とも健康な学生たち。この若者らに混じって月曜から金曜まで、朝8時半から午後3時頃まで、昼の小1時間と午前・午後の休憩15分を挟んで休みはありません。学生の出身はドイツ、スイス、オランダ、スエーデン、イタリア、スペイン、フランス、ポーランド、ミニ国家のリヒテンシュタイン、サウジアラビア、シリア、タジキスタン、トルコ、ジョージア、ロシア、中国、韓国、日本…中南米諸国、世界のさまざまな国から来ていて、例えばサウジの青年らは概してみな押しが強く、酷い巻き舌の発音で私たちはなかなか聞き取れませんが、さすがに向うの先生らはどんなに訛った英語でもしっかり聞き取って対応していました。土曜には街に繰り出してバカンスを楽しみ、海外旅行もし、20代と友だちになり、自分が60代と思ったことが一度もありません。

 

 いずれにせよ、10代、20代の若者に交じって62歳の老人2人が錆びた英語に磨きをかけようというのですから、傍目には見られたものではなかったでしょう。帰宅後は夜の12時過ぎまで、電子辞書を片手に復習と予習につぐ予習。私は大学受験の猛勉強の経験はありませんが、この時は受験生以上の猛勉の日々でした。すらすら答え授業がどんどん進んで行く若者らのクラスで、毎日私はアップアップして酸欠状態で、あがきながらやっとその日の授業を終える始末でした。日本人はたいてい文法の試験は満点なのですが、スピーキングやリスニングができないのです。だが、あれほど巧みな語学教師に接したことはなく、あれほどいい先生に会ったこともありません。作文で高い評価を頂戴した先生とは相性が良かったのか、帰国後も交流を続けています。3か月ほどして、上のクラスではついて行けないのでないかと内心ドキドキしながら、少しずつクラスが上がって行きました。少年時代には、帰宅する父の靴音を100メートル先から聞き分けるほどの聴力だと言われましたが、今から考えるとすでにわが信用できる耳が老いてだんだん遠くなり、明瞭に発音を聴き分ける力が鈍っていたのですが、それを振り払い、頑張って、頑張って少しでも上級クラスに上がろうと努力していたのでした。あれほど英会話で七転八倒を経験したことはありません。

 

 それでも時が過ぎるとこれらの1年は懐かしく、机を共にした若者たちの元気な顔が思い出されいとおしくてたまりません。もし環境に恵まれ、20代でこんな海外生活をしていたら…。

 

 最後にひと言。英語を話せるか話せないかは話す環境に置かれるかどうかにかかっています。話せても人を見くびっちゃなりません、話せなくても劣等感を抱く必要は全くありません。話せても話せなくても、人間として思いやりのある素晴らしい人が第一です。そして、勇気と実行が私たちの人生を大きく変えます。62歳でもその後の人生が変わったのですから。

 

 「若者よ、おとめよ、老人よ、幼子よ。主のみ名を賛美せよ。」(詩編148篇)

 

 

 

 主夫の料理に時間をかけるだけが能ではありません。最近は外出から帰って20分でテキパキ作って、サッと待ち構える女性の前に出す場合も多くなりました。今日などは、帰宅するや、おなかが空いたわ、今朝はシリアルを食べてすぐ出かけたので、もうペコペコよと言って、「ホジュン」を見るためどっかとテレビの前に坐られてしまったので、頭の中で思っていた料理をパッと切り替えて別の料理に変え、「ホジュン」を見始めた麗人の目の前に出すまで15分とかかりませんでした。簡単料理でも結構いけるレシピがものになりつつあるかも知れません。

 

 だが昨日は違いました。2時間半ほどかかって夏野菜たっぷり牛肉のワイン煮込み料理を作って、さるすてきな方から頂戴した、先ほど焼きあがったのよとお聞きした自家製パンをお皿に乗せて夕食に出しましたが、最近ではまれに見る豪勢な夕食になりました。もしお皿とテーブル・クロスさえいいものにすれば、何しろ煮込み牛に夏野菜の種類が九種類、それにニンニクを加え、トマトケチャップとソースで味付けし、あらびきブラックペッパーを入れて、たっぷり入れたワインで2時間じっくり煮込み、こんなうまい料理は、以前にブルゴーニュのワインのメッカ、ボーヌの町で食べた鳩の料理やエスカルゴの料理、そしてコルマールのレストランでいただいたアルザス地方の家庭料理のほか、フランスでもどこでも食べたのを思い出せません。もしブルゴーニュの顔なじみのあの田舎農場が作る赤ワインとチーズをこれにつければ、今日一日の疲れも暑気も吹っ飛ぶこと請け合います。こんな老いの日々があるのなら、あの時、ワインをダースで持って帰るべきでした。ええ、わが家では時には領主のように、時には下僕のように、また時には乞食のようなものさえ頂いて、万民の味と苦しみとを味わっています。

 

 昔は、主婦が帰るや座りもせずに台所に立って夕食を作ってくれるのを見て、この人は生来タフな人なんだと愚かにも思うだけでそれが当り前のことでした。今は、自分は汗をかきつつ帰って来て、シャツもズボンも靴下も脱ぎ捨て、しばらく強風の扇風機でお尻と股に風を送り込んで汗を乾かす―この書くのもはしたない行為が夏のわがルーチーン的な風景になっていますが、いや~、この涼風がたまらない―のですが、イチジクの図柄の薄いパンツだけで台所に立って食事を作ります。

 

 という訳で、主夫の最初の一年程の料理は女性的な風合いのものが多かったですが、最近は漁師たちが褌一丁で船上で作る男料理風のものが多数入って来ました。とはいえ、フランス料理以上の手を掛けた料理も出るのですから、男性女性入り混じってブレンドされたいい味が出ている気がします。

 

 8月7日、今年は今日が立秋とか。今日から秋料理と行きましょう。でも、秋料理に欠かせない今年のトウモロコシが格段に高くて品質がまったく良くない。それに枝豆も、ところてんもこの間もういただきました。となれば、桃やブドウやナシやクリなどの味覚をデザートで味わうことになりますが、そんなものは今のところわが家では手が出ません。本当に高いです!。地球温暖化とロシアのウクライナ侵略がますます憎くなるほどに本当に高いです!

 

 という訳で、昨日、20%引きで買っておいた赤魚の粕漬で今日の夕食は決まりです。副菜は今冷蔵庫の中をよく見てから決めましょう。主夫の大事な心構えは、時々冷蔵庫の中に何があったかをしっかり確認しておくこと。すると料理人の心が整理されているので作りやすく、買い物にも便利ですし、調理にもうまいやり繰りができるというものです。

 

 「ある日のこと、ヤコブが煮物をしていると、エサウが疲れきって野原から帰って来た。エサウはヤコブに言った。『お願いだ、その赤いもの(アドム)、そこの赤いものを食べさせてほしい。わたしは疲れきっているんだ。』」(創世記25章)