英語を話せない62歳と63歳の2人が、1年間イギリスで語学研修しました。20年前の今日あたりは、日々アップアップしていました。

 

 日本人の何%が英語に劣等感を持っているでしょう。一部を除きほとんどかも知れません。少なくとも6年間は多くの人が英語を習って来た筈、大学まで入れれば約10年間も触れて来たでしょう。ところが大学を出てもたいてい英語を話せません。ですから外国人が近くに来ると、大学院出の高学歴者でも一歩身を引くのが私たちです。たとえ英語は読めても英語で話せないのです。

 

 私もむろん例外でなく英語が話せませんでした。英語の本があっても日本語で用が足せれば人は安きに流れます。私がそうで、牧師になる大学を出て、始めの頃は英語やドイツ語の本をいつもそばに置いて仕事をしましたが、慣れは恐ろしいもの、次第に外国語から遠ざかって行きました。40代半ばには、特別な外国語は原文で読むものの、英独の本はほぼ読まなくなり、何年も長文の英語を目にすることがなくなりました。だが無意識の中で、英語を話せない劣等感が募っていた気がします。

 

 ある時、日本人女性とカナダ人男性の結婚式の司式をすることになり、メッセージを日本語で書いて彼らに訳してもらい、来日した親族や友人にプリントを配布してもらったのですが、その二人とのやり取りでいかにも英語が話せない牧師への軽視やみくびる態度に接したのです。内心では憤慨しつつ、それを振り払って若い2人と両家に祝福を贈ろうと心を決めていました。

 

 これが主な引き金ではありませんが、その後いろいろと考えることがあり、20年来もっと深く知りたいと夢見て来た「テゼ共同体」を現地で学びたいと切に願うようになり、丁度大仕事も一段落して、私も妻の仕事も後進に託して心配が要らないほどになったので、高校のクラスメイトなど社会では定年を迎える時期に達していたこともあり、思い切って仕事を辞め、いわば自分に1年間のサバティカルを与える形で遊学し、英語世界で語学研修してテゼを学んでみようと、2人は一大決心をしたのです。

 

 当時、海外の各地で別の感染症が猛威を振るい、急遽予定を変えて最終的に決めたのがイギリスのケンブリッジでした。当時その町にEmbassy CESという質の高そうな語学学校があり、高齢の老人2人は大きな荷物を抱えて渡航し入学しました。むろん長期の海外生活は2人共生まれて初めて。

 

 学生はほぼ18歳から23歳。稀に50歳前後の人も短期で来ますが、60代は皆無でした。1クラス15人程で、みな意欲的で心身とも健康な学生たち。この若者らに混じって月曜から金曜まで、朝8時半から午後3時頃まで、昼の小1時間と午前・午後の休憩15分を挟んで休みはありません。学生の出身はドイツ、スイス、オランダ、スエーデン、イタリア、スペイン、フランス、ポーランド、ミニ国家のリヒテンシュタイン、サウジアラビア、シリア、タジキスタン、トルコ、ジョージア、ロシア、中国、韓国、日本…中南米諸国、世界のさまざまな国から来ていて、例えばサウジの青年らは概してみな押しが強く、酷い巻き舌の発音で私たちはなかなか聞き取れませんが、さすがに向うの先生らはどんなに訛った英語でもしっかり聞き取って対応していました。土曜には街に繰り出してバカンスを楽しみ、海外旅行もし、20代と友だちになり、自分が60代と思ったことが一度もありません。

 

 いずれにせよ、10代、20代の若者に交じって62歳と63歳の老人2人が錆びた英語に磨きをかけようというのですから、傍目には見られたものではなかったでしょう。帰宅後は夜の12時過ぎまで、電子辞書を片手に復習と予習につぐ予習。私は大学受験の猛勉強の経験はありませんが、この時は受験生以上の猛勉の日々でした。学生らがすらすら答え、授業がどんどん進んで行く若者らのクラスで、毎日私はアップアップして酸欠状態で、あがきながらやっとその日の授業を終える始末でした。日本人はたいてい文法の試験は満点なのですが、スピーキングやリスニングができないのです。だが、あれほど巧みな語学教師に接したことはなく、あれほどいい先生に会ったこともありません。作文で高い評価を頂戴した先生とは相性が良かったのか、帰国後も交流を続けています。3か月ほどして、上のクラスではついて行けないのでないかと内心ドキドキしながら、少しずつクラスが上がって行きました。少年時代には、帰宅する父の靴音を100メートル先から聞き分けるほどの聴力だと言われましたが、今から考えるとすでにわが信用できる耳が老いてだんだん遠くなり、明瞭に発音を聴き分ける力が鈍っていたのですが、それを振り払い、頑張って、頑張って、少しでも自由に会話ができるように上級クラスに上がろうと努力していたのでした。あれほど英会話で七転八倒を経験したことはありません。

 

 それでも時が過ぎるとこれらの1年は懐かしく、机を共にした若者たちの元気な顔が思い出されいとおしくてたまりません。だが、中にはシリア人の兄妹やロシア人の青年らですでに戦死したり、爆撃で亡くなった青年もいるかも知れません。また、もし私が環境に恵まれ20代でこんな海外生活をしていたらと思うことがありますが、60代だったからこそ地元の人らとの深い出会いがあってキリシタン時代のことを彼らに話したり、交流が帰国後も続きました。

 

 最後にひと言。英語を話せるか話せないかは話す環境に置かれるかどうかにかかっています。話せても人を見くびっちゃなりません、話せなくても劣等感を抱く必要は全くありません。話せても話せなくても、人間として思いやりのある素晴らしい人が第一です。そして何よりも、勇気と皆がしない思い切った実行が私たちの人生を大きく変えます。60歳を越えた老人でさえその後の人生が変わったのですから。

 

 「若者よ、おとめよ、老人よ、幼子よ。主のみ名を賛美せよ。」(詩編148篇)