私の関心の一つは、おひとりさまです。別にさる有名人のおひとりさまの姿を覗き見ようとか、コミックにおひとりさまの姿を描いたものやその種の小説を知りたいというわけではありません。もっと普通の人たちの普段の姿、現実のありのままの素朴な姿に接したいという思いなのです。それは、誰しも人生の終わりはおひとりさまになるかも知れず、私自身、やがておひとりさまになるのを予想してその時にどう生きるのかを考えるためです。
ある知人は、地方の高校を出て下町の会社に工員として入社し、そこで体を悪くしてからいろんな業種で働いたり、ホームレスを経験したり、数多くの試練や絶望の日々を通って今のところに来た人ですが、実家を出てからの人生のすべてをおひとりさまで過ごしてきました。彼の言葉から想像すれば、よくもそんな道なき道を通って人生が続いてきたものだと感心しますが、実際に曲がりくねった細い道があったのですから、今も生活保護を受けてあるアパートの一室で暮らしているのです。
彼の部屋がどうなっているのか、彼の毎日の食べ物はどうなのか私は知りませんが、彼もスマホを持ち歩き、バスにも乗って出かけ、夏冬の服装も季節に合わせて身に着けて暮らしています。もちろん歯磨きもシャワーも、そして普通の人たちはずいぶん長く遠ざかっていると思いますが、長い手紙をボールペンで書いて何人かの人たちと文通もしています。文面は筋が通って一貫していますし、普通の人以上に整った字で文章を書き、誤字もなく、枚数も時に10枚近くになることさえあります。
彼の今の楽しみの一つはここにあるのでしょう。これが彼の情熱を傾けてなす、自分が生きていることの存在証明であり、あかしなのです。おそらく彼がアパートの一室で数人の人に手紙を書いている時が、最も輝いている時間に違いありません。おひとり様で人生を送ってきましたが、人への思いやりがその手紙のあちこちに見られて、ちょうどよい気づかいをもってその人生を生きていることがうかがえます。
その時の彼の心の中を想像するとき、暮らしやすく整った、高級感のあるモダンなヘーベルハウスなどで暮らす高級そうな人たちと比べてどこにどんな遜色があるでしょうか。いや、この時の充実感はそのモダンな人たちに遥かに勝っているかも知れません。
だからです。私は彼を尊敬さえしています。彼が季節に合わせて外出するパリッとした姿は、むろんヘーベルハウスで優雅に暮らす人とは比べ物になりませんが、恰幅(かっぷく)もいいせいでなかなかのものです。彼の話には、彼特有のコンセプトが含まれていて、もしこれまでの生活から来る劣等感さえそこから取り除けば、誰もが拝聴すべきものが含まれています。
今日はもうおひとりのおひとりさま生活者のことも書こうとして書き始めましたが、長くなったので少しだけ触れて終わりにします。その人は40年近くおひとりさまをしてきました。玄関から物であふれていますが、部屋に入ると曲がりくねった小道を右に左に進むように、あちこちに長く置かれたままの服や本や袋や書類など雑多なものを乗せたテーブルや台があり、それをのけて曲がりくねって進まなければなりません。部屋の奥に、動物の寝床にように体の形になってへこんだ、低く調整されたベッドがあります。しかし部屋で一番目につくのは、面長で、知的で、かつ優しそうな美しい女性の大きな全身写真です。半世紀ほど前に40代で亡くなった、若いころの元気な奥さんだそうです。学者らの出で、自分も数学が好きで若者たちに教えていたそうです。と言っても、このおひとりさまは別に奥さんのことにいつまでもこだわったり泣いたりしているわけではありません。長く有名な商社で働いた彼はもっと別のことに関心を持ち、食事はコンビニと弁当屋に買いに行き、ノロノロ動き回って身の回りのことは自分一人、おひとり様でしているのです。頭は今も冴え、活舌もはっきりして、血色もよく、明確な意思も表現する99才の人です。彼の一番の楽しみは、……。
「いと高き方はすべてのことに精通し、時の徴に目を留められる。」(シラ書42章)