この10年ほど愛用して来た白い折り畳み日傘をなくした。昨日、午後はかなり暑くなりそうなのでリュックの側面に差しておこうと、いつもの傘置き場を見たがそこにない。アレっと思って、さらに置きそうな4か所も見るがどこにもない。いつの間にかふっと消えて、何も告げずにどっかに家出してしまったのかと寂しさが胸に沁みた。
昨日は朝から疲れていたので、見ても目に入らなかったのかと思って、今日も家の中をあちこち探したのだがやはりどこにも見当たらない。普段はそんなに気に留めなかったが、どこかにプイと家出のようなことをされてみると、そいつのことがかわいくてたまらない。愛しいとはこういうことだろう。私がどこかに置いて来たのだ。
何年にもわたり、自分を大きく広げて夏の太陽から私を守ろうと身を挺してくれたあいつ。そこには自己犠牲のような献身があったが、一言も愚痴を言わなかった。私から乱暴に扱われることも何度かあった気がするが、それでも素直に従ってくれたおかげで一度も壊れたことも不都合なこともなかった。
10年ほど前、東京でも男性が日傘をさしているのはほぼまれだった。いや、あの夏は誰も日傘をさす男性を見たことがなく、白山通りを遠くまで歩いたことがあったが、シャイな私は正直に言って時々顔を赤らめた。それでもあいつは恥ずかしがらず、わたしの手にうまくフィットして連れ立ってくれたのだった。ところが2年ほどして、日傘をさす数人の男性を目にして、ああ、仲間がいるとあいつと一緒に微笑んだものだ。そしてその後は年ごとに日傘をさす男たちが増え始めて、今では知的な男たちだけでなく野暮な男たちの必需品にもなり、夏の男性のアクセサリーにもなりつつある。
そんな日傘なのに、今日もどこかに行ったきりで戻ってこない。英語でロストとはよく言ったものだ。ロストは「失われた」「紛失した」という意味だが、主観的には「消え去った」「行方不明の」という別の意味が私の心にはぴったりする。いや、それだけではない。私の心はもっと複雑で、英語のロストがさらに意味するように、私の心が「道に迷った」とさえ思われ、「当惑する」、「放心したような」思いがして、「途方にくれて」いる有様なのである。
これまでにも私の心が「放心したような」こと、「途方にくれて」しまったことがあった。それは、わが愛用の帽子を川沿いのあるベンチでなくし、すぐさま引き返したがすでにどこへともなく消えてしまっていた。あの時はロストがさらに意味するように、私の心が「死滅した」「死んだ」と思えた。今もそのベンチの前を通るときは、私の心がつぶれそうになる。
日傘や愛用の帽子をなくして、それらはもはや二度と私のもとに返らなくなったが、今私は、これは将来に向けた練習をしているのかもしれないと思いだした。いつか、50年以上もずっと一緒だった人がふいっといなくなる。どこを探しても後も形もなくなる。これはだれも止めることができない。私はあの傘も愛用の帽子ももし努力に努力を重ねて歯を食いしばって探してみればどこかにあって今も見つかるかもしれないと思っているのだが、この場合はどこを探しても見つからない。それは、涙を流して受け入れなければならない厳粛な事実となるだろう。私たちの星は銀河系の流れに沿って、それほど迅速に宇宙を飛行しているのだ。その時の悲しみはどんな言葉で言い表せばいいのか、今はまだその予習をしていないのでどんな言葉も思い浮かばない。しかし、その時が必ず来るという事実は腹をくくっておかなければならない。誰がなんと慰めても、その喪失は埋めることができず、おろおろと、夜通し町や田舎の村々を通って歩き続けて叫び続けなければならないかもしれない。
いずれにしても愛用の帽子をなくしてその小さな練習をし、愛用の日傘をなくしてもう一度小さな練習をしているのだろう。ああ、ああ、ああ、なんてこった!
「ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。」(ルカによる福音書15章)