人間の弱さと向き合う … 春名風花さん@新宿(舞台「偏執狂短編集IVΣ」橡の章 6/30昼公演 | まるゆいのおと日記(ですよ)

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本業は天気屋の私、まるゆいの'行動記録'的なもの。もっとも、多いのはライブレポ♪、次に旅のはなし(でありたい...)。
どうぞごゆるりとお楽しみください。
※コメントは承認制にしております。ご了承くださいませ。

当日記筆者の現在の部署のお仕事がIT系PCだから…、というと少々乱暴かもしれませんが、そのお仕事で扱っている事柄は、ほぼ確実に”理由”と”結果”(もしくは”見込”)が存在します。つまり、Aという結果になるためには、Bという理由がある…。こんな感じでしょうか。

もっとも、IT系のお仕事ならば、その理由と結果そのものが成果や仕事の対象だったりしますが、一方で、音楽や演劇といった芸術としてこういった関係が提示されると、そこには観る者聴く者に考えさせる余地が与えられていきます。

さて、当日記ではお年始以来のこのひと、はるかぜちゃんこと春名風花さんの舞台であります。




清楚キラキラ+ツイッター上では時折シュールてへぺろ+真面目な時は爽やかに正論を披露チョキ…という印象がある風花さんですが、今回は、この強烈なビジュアルとタイトル…、圧倒的な存在感にまず目を見張ります。。。



(当日配布されたパンフレットの表紙です)

メインビジュアルを務めているお二人のうちのひとりが、風花さん。言うまでもなく、過激な表現…ではあります。

つけられたシリーズ名は、偏執狂短編集…。Paranoia Papersと英題も付いています。
実在、もしくは史実等に基づいた6つの演題。筆者はこのうちの橡(つるばみ)の章の3演題、「こちら側の世界」「アーサーシャウクロスは戦いたい」「日本に置き換えております<ナポリの豊年祭のこと<「悪徳の栄え」より<マルキ・ド・サド著」(以後、「マルキ・ド・サド」と表記)を観て参りました。本来ならば、やはり6演題全て(もう片方は聴(ゆるし)の章)を通してみると完全な形になるのだと思いますが、片方だけでもしっかりと考えさせるものがありましたキラキラ


橡(つるばみ)と、聴(ゆるし)。
どちらも対応する漢字の読みとしては、普段は見ないものですが、それぞれを漢和辞典で見てみると、「つるばみ」にはクヌギを原料とした黒の染料、つまり喪服の色、そして「ゆるし」には聞き入れる、あるいは受け入れるという意味があるようです。この日、筆者が目にしたものは、喪服の色に彩られた世界…ということになるのでしょうか。

もう少しちゃんと予習すればよかった…という若干の後悔をとりあえずしつつ…
3演目で途中休憩を入れて3時間半という長丁場。満員の場内には、たとえ感嘆や恐怖の感情があったとしても、それを声に出す者もおらず、まさに舞台上で展開される物語…あるいは偏執狂の思考の世界に、どっぷりと浸っていく光景が展開されておりました。もちろん、筆者もそうでありました…。


もっとも、ビジュアルが大変過激…であることは一つの特徴ではあるものの、展開される物語は実にシリアス。特に、筆者が観てきた「橡の章」の演目にある「アーサーシャウクロスは戦いたい」は、モチーフとなった人物が、かつてのベトナム戦争の兵士。その生い立ちや、戦争中のできごとを通して、なぜ”偏執狂”とされるほどのことをするようになってしまったのか…。そして、悪事は決して許されることではないけれど、そこだけを吊るし上げるように取り上げても、むしろ不毛な対立を生むだけではないのか…(物語は、この人物のことを取り上げたテレビ討論番組の中で交わされる議論として進んでいきます。そこに”コメンテーター”として登場している”一般人”からすれば、無意識のうちにそういったものの考え方になりがちではないかと)。

百聞は一見にしかずということわざがありますが、「過激な表現」は、あくまでも表現手段の一つ。平和であり、人間としての尊厳を得ることがいかに重要なのかを、究極の逆説的な表現を用いて観る者に訴えかける…、そのような感を持ったのでありますキラキラ


「マルキ・ド・サド」は、舞台上で展開される光景が、”人を殺していく遊び”。もとの著書から置き換えられた日本の時代とは、日本が戦争に突入していこうとする頃の、旧満州という設定。本当にこんなことが起きていたのかどうかはともかく、何が正しいのか?という部分がゆがめられている…という点では、こうした”遊び”と徐々に戦争へ向かうということが、どこかオーバーラップします。

風花さんは、こちらの演目では主役。白いお衣裳が象徴するかのように、使用人(時代背景からは、中国人…という設定になりますね)が、置き換えられた時代としても、物語の中でも虐げられているのを、なんとか救いたい…という立ち位置で登場してくるのですが、目の前で展開される”人を殺していく遊び”が進むにしたがって、その考えと現実とが次第に合わなくなってきます。ついには究極の選択を迫られ…

最初は清楚だった風花さんのふるまいが、最終盤では狂気に支配されているかのようなものに変わり…。これも、戦争とオーバーラップさせることで、狂っていると分かっていても、”正しい”と思いこまされてしまうとどうなるか…ということを考えずにはいられない内容です。


「こちら側の世界」は、これらのプロローグ的な存在だったかと…。演目案内にも”ストーリーはなく”、セリフもほとんどありません。
実際に「アーサーシャウクロスは戦いたい」や「マルキ・ド・サド」でも多く取り扱われる性描写であったり、”拷問の手段”が表現されていくのですが、不気味ですらあるにも関わらず、思わず目を奪われる…。ビジュアルそのもの異様さはここに集約し、史実に基づくストーリーが埋没しないような役割を担っているようです。


3時間半にもわたる上演が終わると、そこにはごくごく普通に演者の皆さんのお姿がありました。
確かに、この世界は劇の中の世界…なんだろうとは思います。
“異常”とまではいかなくとも、“なんだか変”なことを最初からしたいと思っている…なんてことも、通常はないはず、とも思います。

しかし、このように考えていることが、ひょっとすると”なんだか変”なのかもと思うと、それも全否定はできないかもしれません。
人間の弱い所をえぐり取るように見せる…そんな舞台ではなかったかと思うわけです。

本当に貴重な舞台、ありがとうございましたキラキラ