大阪市を南北に貫く動脈・地下鉄御堂筋線
そのうち江坂駅以北は、私鉄の北大阪急行電鉄が運営しています(※以下、北急と略)
江坂~なかもず間の地下鉄区間も近年民営化(※大阪メトロ)されましたが、北急は市営地下鉄時代から私鉄で、現在と同じく御堂筋線と直通運転されてきました
北急は、私鉄他社に例のない経過で設立され、今に至る路線です。後程詳述しますが・
そんな北急が今年(2024)年、かねてから計画していた"さらに北への延伸"がついに完成し、営業運転を始めました
(※千里中央~箕面萱野駅間)
今作はその区間に乗ると共に、北急の親会社である阪急電車について、創業者・小林一三の生涯を基にふれたいと思います。
併せて、大阪の奥座敷・箕面市の名所も訪ねます。そんな"三部構成"作です^
大阪メトロ御堂筋線・梅田駅からスタートします
南側(※阪神側)の改札から入ると、戦前開業時の名残が感じられる↑ドーム型の形状がわかります
いつも混雑する御堂筋線なので、撮影しやすいよう、日曜の早朝に乗ってきました
なにわの街を南北に貫く御堂筋線。その北の終点は長年、千里中央駅でしたが、冒頭の通りこの度延伸され、千里中央から2駅を新設、箕面萱野駅まで開通しました
梅田を発車、北隣の中津駅を出ると、地上へ
いきなり淀川を渡り、新御堂筋の真ん中を車と並走
新大阪駅で新幹線と連絡、その2駅北の江坂駅までが大阪メトロ、それ以北が北急です。
江坂駅には特に待避線等は無く、他の中間駅と同じ造り。でも同駅は、市営地下鉄時代から"会社分界点"としてのこだわりがある(?)みたいで、夜間に数本、江坂折返しの区間運転車が設定されています(※渡り線があり、折返し可能)
江坂を出ると、↑名神を跨ぎます
北急に入ると、緑地公園→桃山台→千里中央の順に停っていきます。鉄ちゃんなら、駅の表示や音声案内が北急オリジナルに変わるのがわかりますが、一般乗客は"江坂から会社が変わった"とは意識しないと思います。あえて意識するとすれば、運賃がキッチリ打切加算されている事でしょうかw
江坂から10分程で千里中央駅到着。つい先日まで各駅で『千里中央行で~す!』と連呼されていた駅ですが、延伸と共に原則箕面萱野駅発着になったので、もうそのアナウンスを聞く事は無くなりました。写真撮る間もなく15秒程でアッという間に発車、完全な中間駅になっていました
電車は千中を出て新線区間へ、新設の↑箕面船場阪大前駅に到着。柱がピカピカです^
千里中央~船場阪大間で一旦地下へ潜っていた線路は、終点・箕面萱野が近づくと再び地上へ。北摂の山々が見えてきます
終点が近づき、真新しい線路にブレーキ音が響くと・
梅田から約30分弱、終点・箕面萱野(みのおかやの)駅到着
ついに北急が、大阪の奥座敷・箕面市までやってきました^
ホームは1面2線、新設駅だけあってホームドアも当初から装備。広々と造ってあります
終端部は、↑"もうこれ以上は延ばさない"感が満点ですw
北急の駅番号は御堂筋線と共通で附番され、北から南へ数字が進みますが、箕面萱野駅は"M06"なので、将来的に5駅は北へ延伸可能(?w)
箕面市には元々、阪急(※後程乗ります)が西側に、大阪モノレールが東側に走っていますが、その中間の鉄道空白地帯を貫くように、御堂筋線と直通する強力な動脈が走り出しました。沿線価値は大いに高まり、箕面市半世紀の悲願が実現した形です
ここで、関西以外では知名度少なめな北急について纏めておきます
北大阪急行電鉄は、先程来ご覧の通り、地下鉄御堂筋線と直通運転している私鉄ですが、その創設の経緯が独特です
北急は、1970年の大阪万博を契機として敷設された路線です
長年新大阪までだった御堂筋線は、万博輸送のため、千里丘陵の万博会場まで延伸する事になりました。
大阪市/吹田市境の江坂駅までは市営地下鉄(※当時)が、江坂以北は阪急が中心となる新会社を設立して建設する事になり、突貫工事で完成。開通と同時に、北急は万博への足として大活躍しました
当初開通したのは、江坂~万国博中央口駅間(※約9km)。
このうち、千里中央~万博中央は"万博期間限定"で敷かれたので、終了後廃止、撤去。
軌道敷跡は現在、中国自動車道になっています
万博終了後、千里中央が終点となった沿線には、公団住宅や民間マンションが大量に建設、"千里ニュータウン"として全国有数の団地群になり、北急は通勤路線になります
北急は順調に集客、しかも万博期間中に莫大な運賃収入を得ていたので財政的にも豊かで、初乗運賃は2024現在も100円(!)、2017年までは90円と2桁でした(驚)
大阪メトロとは江坂を境に打切加算されますが、北急部分が激安な上、乗継割引(※大人20円)も適用され、割高感はそれほど感じません
(※新設の船場阪大前/箕面萱野駅乗降は、加算運賃60円増)
21世紀に入り、千里中央駅以北、箕面市への延伸計画が具体化。元々当地には新船場繊維問屋街や阪大キャンパス等の乗客ベースもあり、今春(2024)延伸開業
北急は江坂~箕面萱野間、約8kmとなりました(※箕面萱野~なかもず間は約33km)
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改札を出て、駅前へ
高架駅から、↑長いエスカレーターを地上へ下ります
地上にはバスターミナルが新設され、阪急バスが乗入しています。これから、"昔からの箕面駅"・阪急箕面駅までバスで行きます
同駅からは、阪急箕面、大阪モノレールの彩都西駅、豊能町方面への便もあり、同駅開業の際に阪急バスは大規模な路線再編を行いました
発車しました
萱野駅⇔箕面駅間は約2km、歩けなくもないですが、早朝から撮影していたので少し休憩も兼ね、バスに乗ります
10分程住宅地を走り、商店街が見えてきたら・
阪急箕面駅に到着
↑駅前に停っているオレンジ色のバスは、箕面市のコミュバス・"オレンジゆずるバス"です(※萱野駅にも顔出します)
阪急箕面線(※宝塚線から分岐)の終点・箕面駅。
箕面線は"阪急発祥の線"ともいわれる伝統の路線ですが、それは後程詳述するとして、これから"箕面一の名所"を訪ねます
箕面市は、大阪府の北に位置し、温泉があったり緑も豊かで、昔から北摂の奥座敷として親しまれてきました。東海自然歩道の西端にもあたり、今も自然豊かな街です
そんな箕面駅前から、この後向かうのは・
箕面の名瀑・箕面大滝を訪ねます
"箕面の滝"としてなにわの人々に癒しを与えてきた滝、駅から滝まで"箕面滝道"という遊歩道が延びています。どんな滝なのか?全長約3kmの坂道ですが、頑張って歩きたいと思います^
土産物店が並ぶ滝道、名物は"もみじの天ぷら"です^
少し歩くと、何やら↑塔のようなものが見えてきました
これは・
↑"箕面温泉スパーガーデン"のEVです
当地に古くからあるヘルスセンターで、関西ではTVCMでもおなじみでしたが、今世紀に入り破綻。2013年"大江戸温泉物語"の傘下に入り、復活しました
スパーガーデン入口近くに、↑周辺の自然を案内するビジターセンター。前述の通り、北摂の山々が近い箕面市は自然環境に恵まれ、沢山の動植物も生息。梅田から30分の緑豊かな郊外都市として、府内自治体の"住みよさランキング"で常に上位に入ります。
同市だけで『明治の森箕面国定公園』に指定されている事からも、箕面の自然豊かさがわかります
中でも、関西人なら箕面のイメージとして持つのが↑"サル"
僕も、箕面と聞いてまず連想するのはお猿さんです^
さらに滝へ進みます
登り坂ですが緩やかなのでそんなに疲れません。ただ、約3kmあるので距離は長めに感じます
遊歩道の傍らには、滝から続く箕面川が流れます
滝道周辺全体が、府営箕面公園の区域です
途中、大きなお寺が。瀧安寺です(※本山修験宗)
開祖は役行者と伝わる古刹で、日本最古で弁財天を祀ったといわれるほか、現在の宝くじの源流・富くじを日本最初に開催し、寺の維持費用にあてたとの事
駅~滝の中間あたりにある↑コンクリ建は、『箕面公園昆虫館』です(※府立)
前述の通り動植物が豊かに生息する箕面の山は、昆虫の種類も豊富で、同館HPによると、箕面は"東京/高尾、京都/貴船と並び、日本三大昆虫宝庫"と称されていたとの事
昭和感満点な↑売店が、所々に待ち構えます
だんだん森が深くなってきます
滝近くに、↑巨岩が滝道の横に迫る所があります
"唐人戻岩"といわれ、その昔、箕面大滝の素晴らしさを聞き及んだ唐からの来日者が当地まで訪れたものの、勿論遊歩道など無い当時、あまりに険しい道に恐れをなした唐人はこの岩までで引き返したとの事。あと少しだったのに・^
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そして、阪急箕面駅から歩く事1時間弱、やがて・
滝が見えてきました
着きました、箕面大滝です
(※日本の滝百選指定・明治の森箕面国定公園)
落差33m、力強く流れ落ちる様子は迫力も感じます^
この前日が雨だったのもあってか水量が多く、水の都・大阪の源泉を感じるような素晴らしい滝です
滝周辺は、箕面名物・お猿さんがよく見られるんですが、この日は残念ながら出会えませんでした
↑はサルへの注意喚起の看板ですが、猿以外に"トンビ"にも要注意との事で、滝前でおやつでも食べようと食べ物を出すやいなや、飛んできて瞬時に奪い去るそうです
滝道はもみじの名所としても知られるので、秋のシーズンには特に多くの人出になります
↑展望台もあり、一段高い所から観瀑も出来ます
朝から外国人観光客の姿もみられる一方、ジョギングや犬の散歩をしている地元の方々も多くいる感じです
朝から箕面の滝でマイナスイオンを浴び、パワーをもらいました^
駅に戻ります
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ここから再び、鉄分満点になりますw
これから阪急箕面線に乗り、阪急創業者・小林一三から見た阪急の歴史について辿っていきたいと思います^
ご存じ、京阪神を便利に結ぶ阪急電車。その歴史は1910(明治43)年、箕面有馬電気軌道により開通した梅田~宝塚間(※現宝塚線)&石橋~箕面間(※現箕面線)から始まります。箕面は、阪急創業と同時に電車が走り始めた街です
関西私鉄では『〇〇電車』と呼ぶのが一般的ですが、阪急はひと頃、そんな慣習に抗って"阪急電鉄"と呼ばせようとしていた時期がありました。
駅の表示や車内アナウンスも"電鉄"を意識的に使っていましたが、乗客は"阪急電車"と呼ぶ長年の慣習を変えなかった事もあり、近年再び、↑駅表示等に"阪急電車"が復活してきています
↑"のりば"と駅頭に大書する傾向も関西私鉄あるあるです^
箕面線に乗ります^
箕面線は箕面~石橋阪大前間、4kmの短い盲腸線です。
途中2駅あり、4両編成で折返し運転しています
10分弱で早や、石橋阪大前駅に到着
冒頭の北急にも”箕面船場阪大前駅"がありましたが、阪大キャンパスは3ヵ所に分れて所在しています
同駅で、宝塚線と接続します
箕面線ホームは3線あり、普段使われているのは終端式の1線のみで、あとの2線は・
↑現在ほとんど使われていない2線は、宝塚線の梅田方へ繋がっています。2022年まで朝夕、この線を使って梅田直通の準急が運転されていましたが廃止され、現在は線内折返便だけになっています
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石橋から宝塚線で隣駅、池田駅へ。
同駅下車で、阪急の歴史をさらに知る事が出来る記念館があるので訪ねます
池田駅は高架、立派な駅舎です
大阪府池田市は箕面市の西隣。兵庫県と境を接し、伊丹空港近くです
池田市は数々の見所があるんですが、今作では"阪急"に集中したいと思います(※又の機会に再訪します)
池田の街には、阪急の傍系財団が運営する文化施設がいくつかあります。閑静な住宅街を歩いていくと・
古めかしい↑屋敷の門、小林一三記念館です
内部には、常設展示がある『白梅館』と、一三の旧邸『雅俗山荘』の2棟が主で、他に映像室や庭園等があります。まず白梅館の展示から見学します
白梅館へ一歩入ると~
中央はホールで、真ん中には↑一三愛用の帽子とステッキが
そしてホールの四方、壁で仕切られた建物の淵に沿って展示が並ぶ、という恰好でした
阪急創業者・↑小林一三です(※1957年没)
一三の生涯は後程、雅俗山荘のところで。
展示はいくつかのコーナーに分かれているんですが、各々の入口に"箕面ゆき"、"神戸ゆき"等の電車行先風に(※各コーナーは壁沿いに繋っているので、毎々中央ホールから出入しなくてもよい)
"箕面ゆき"から入ると、大体歴史順に見ていけます
創業時の↑乗車券類も並び、一通りの年表もあるんですが、同館は単に"阪急鉄道博物館"では無く、"一三が創り上げた阪急ワールドとは?"を基本としたコンセプトです。
同館見学の肝は、『なぜ阪急は、他私鉄と一味違う企業風土なのか?』を基本に見ていくのが良いと思います^
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ここから、館内展示の写真を交えつつ、阪急の沿革を纏めてゆきます^
箕面駅のところで少し書きましたが、1910(明治43)年、現在の宝塚線と箕面線を開通させた"箕面有馬電気軌道"から、阪急の歩みはスタートします
創業時の車両、↑1形。路電スタイルで標準軌という関西私鉄にありがちな出立ちで走り始めましたが、開通時の宝塚線は住宅は少なく、田畑や山林といった沿線でした。「こんな路線で集客できるのか?」という疑問が世に渦巻く中、一三はもう、現在の阪急に繋がるビジョンを頭の中に描いていました
一三は、既存の人口から乗客を呼ぶのではなく、"鉄道会社が自ら、乗客需要を創り出す"という日本初の発想を実践します
ここ池田市や豊中市等を住宅地として開発、分譲販売を自社で行い、阪急自身が沿線に乗客を生み出しました。日本初の"住宅ローン"はこの時初登場したとされます。
又、終点・宝塚には温泉施設や遊園地、さらには少女歌劇団まで設立、山沿いの寒村を一大レジャーゾーンに造り上げ、大阪からの乗客を獲得。新しモン好きの関西人も度肝を抜く経営手法を確立し、一三は経済界からも注目されます
明治末の創業時から、一三は↑"鉄道沿線を吟味して住まいを探す"という、現代の不動産選びと同じ考えを世に提唱しました。その先見性に驚くばかりです
宝塚/箕面線を成功させた箕面有馬電軌は、"阪神急行電鉄"と改称。神戸線の建設に取り掛かります。
阪神間には既に、日本初の都市間電鉄・阪神電車が開通していましたが、海辺の集落を縫うように結んでいた阪神に対し、阪急は六甲の麓を極力直線的に敷設し、"高速化"へも挑戦しました。戦前より、省線(※現JR)とは速度面で、阪神とはダイヤ/サービス面で熾烈な競争を繰り広げ、鉄道そのものでも真剣勝負でした
勿論、阪神間でも住宅を分譲。芦屋市や西宮市等で"高級住宅地"といわれる所が多いのは、阪急がその礎を築いたといえます
1929(昭和4)年、↑日本初の鉄道直営デパート・阪急百貨店を開店。駅ターミナル直結のデパートはここが"世界初"ともいわれます。阪急は宝塚の開発と共に、都心への集客装置も配置。企業イメージの醸成にも寄与しました
戦時統合により、阪急は京阪と一時合併。そして戦後再分離された際に、京阪の子会社が敷設した京都線を阪急が引継ぐ事になり、京阪神を網羅する現在の路線網がほぼ完成します
(※京都線や、戦後の阪急路線の沿革は複雑なため、各線毎の作を将来つくる際に小出ししていきます^)
展示ラストは、阪急が走っていない↑"東京ゆき"のコーナーも
宝塚の開発以来、エンタメ企業としても発展してきた阪急。
一三は東京にも早くから進出、映画会社『東宝』を設立するほか、宝塚歌劇団の常設劇場を東京にも建設。大井町や有楽町に阪急百貨店の支店も出しました。
そんな中で一三は東急創業者・五島慶太とも親交があり、東急も行っていた田園調布での住宅開発や駅デパートは、阪急を手本としたものです
さすが阪急、他社の博物館とは一味違う見せ方でした^
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次に、保存されている一三の邸宅・雅俗山荘へ(※国有形文化財)
玄関入る所からもう、豪邸ぶりを感じます^
1階は主に、レストランとして営業
展示は2階です
邸内は元々、美術館として使われていたので多少改装されており、記念館となった今は、主に一三の生涯を辿るパネルを展開しています
力を入れていた展示が、一三の幅広い人脈について
経済界は勿論、政界から芸能界に至るまで名だたる人々との交流があり、阪急を一鉄道会社の枠にとどめず、エンタメ/不動産/小売業といった、"足付き総合商社"のような存在に育てたのは、豊富な交誼があったのも一助かと思います
↑死去時に追贈された勲一等瑞宝章。
ここで、一三の生涯について簡単に
小林 一三(いちぞう) 1873-1957
生れは山梨県、慶応義塾卒業後、銀行へ入り、社会人生活をスタートします
10年程勤めたある日、元上司が大阪に設立しようとしていた証券会社へ誘われ来阪。これが一三が関西入りするきっかけでした。
しかし当時の不景気の影響で証券会社の話は立消え、既に退社して大阪にいた一三は途方に暮れます
折しもその頃、箕面有馬電軌の設立話があり、一三はピンときて参画。実質的な代表者となり、先程白梅館で前述した経営手腕を振るい始めます
その実績は、先程の白梅館展示の通りですが、彼が影響を及ぼした私鉄は前述の東急のみならず、西武や西鉄等、多くの私鉄が一三イズムを採り入れました
貴族院議員にも勅選され、大臣も2度任じられる等、政界にも進出。前述の通り、宝塚/東京の東西でエンタメ事業を展開、その中で芸能界とも幅広く人脈を築いていきました
1957(昭和32)年、この雅俗山荘で逝去しました。
↑扇千景や寿美花代ら、元タカラジェンヌとも親交。しかし、昨今の宝塚歌劇団の事案、もし今も一三さんが存命なら「伝統とはそういうものじゃないだろう、なぜ時代と共に進化させてなかったんだ」とお叱りの事でしょう。
一三さんの写真があちこちにあるんですが、眼光の鋭さが写真を通しても伝わってきます
一部、往時の姿で保存されている部屋もあります
↑一族の家系図がありましたが、サントリー創業者の鳥井氏が姻戚関係にあたるほか、元テニス選手でタレントの松岡修造さんも一族です
一三記念館、期待通りの見応えでした
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記念館近くの、池田城跡で休憩していきます
他にも、池田市にはいろんな顔があるんですが、又再訪したいと思います
宝塚線で梅田へ戻ります
一三記念館をみた後阪急電車に乗ると、大げさですが感慨ひとしおという感も^
なぜ阪急電車のシートはソファーのようにフカフカなのか?なぜ阪急の車体はいつもピカピカに磨き上げてあるのか?一三さんの心は今も現場にあるのかな?と思ったりします
日本一の規模を誇る私鉄ターミナル・阪急梅田駅到着
今作ゴールです
うめきた新駅乗入の狭軌新線計画等、今後も目が離せない阪急電車です
☆過去作リンク↓
vol.444 "未来実験駅" うめきた新駅(JR大阪駅増設)を訪ねる 梅田周辺ブラ付 | 旅ブログ Wo’s別荘 (ameblo.jp)