vol.393【大峠をゆく・第4章】兼2021ツーリング納め "震災10年の三陸"を走る (後) | 旅ブログ Wo’s別荘

旅ブログ Wo’s別荘

バイク・鉄道・街ブラ・寺社・ネコ^etc・・
とっ散らかしB級旅ブログ^
~~since 2007.6~~

【大峠をゆく・第4章】、本年のツーリング納めを兼ねた宮城県・三陸海岸、後編です宇宙人

 

前編では、震災の年にも訪ねた東松島市・野蒜駅からスタートし、三陸沿岸を北上してきました。今作ではその続き、南三陸町の次からをご覧頂きます黄色い花

 

(※前作につづき、今作内でも震災被害についての写真、記述があります。ご了承の上ご覧下さい)

 

仙台で1泊し、再び三陸道へ出てきたWo号、2日目スタート前に、いろいろと整えるため^^、道の駅に寄りますコーヒー

(※三陸道は、前作スタートした鳴瀬東松島IC以北は新直轄方式で無料のため、SAはなく、休憩は出口近くの道の駅へ寄るというスタイルです)


ここは、『道の駅 三滝堂』です。

三陸道・三滝堂ICを降りてすぐにあります車

(※宮城県登米市)

米どころでも有名な登米ですが、野菜の種類も豊富!リンゴ

僕はここで、登米の椎茸と三陸の昆布でつくった"だし"を買ったんですが、これで料理つくると凄く美味しかったです^^割り箸

コーヒーも飲んで整ったところで^^、再び三陸道にのり、気仙沼市方面へ走りますDASH!

 

・この後、大谷海岸ICで降り、一般道へ右下矢印

今作、あとはゴールの陸前高田市まで、三陸沿岸を貫く国道45号を走ってゆきますDASH!

早速ですが、またまた道の駅 大谷海岸へ寄ります波

先程三滝堂へ寄ってからまだ1時間経ってないんですがあせる、この大谷海岸道の駅について2~3書きたい事があるのでお付き合い下さいロボット

近年建替えられた新しい建物ですが、実はこの道の駅、以前『改築前の仮設店舗』の時に訪れた事があり、過去作で登場しています(vol.146  2013.7.13up)

 

・東北ツーリングに力を入れていた、同作をupした2013年頃、まだ震災の爪痕が多く残る三陸をツーリングしました。この道の駅で休憩していた時、当時復興支援として兵庫県・明石市バスからミヤコーバスへ譲渡された路線バスが偶然通りかかり、驚きと感激だった事を今も覚えています。また、後述する気仙沼線BRTについても作中で詳述しているので、下リンクからご覧下さい↓

vol.146 東北復興シリーズ⑤ 三陸縦断~青森大ツーリング(その1) | 旅ブログ Wo’s別荘 (ameblo.jp)

 

そしてこの道の駅、『JRの駅』を兼ねています。どういう事なのか・

道の駅入口に、↑”JR大谷海岸駅”とハッキリ書かれています。

しかしここには、線路はありません。その訳は~

道の駅が、気仙沼線BRTの駅(停留所)を兼ねているんですバス

(↑は、たまたま発車していったBRTバス)

大谷海岸駅は気仙沼線のちょうど中間あたりに位置し、バス客専用の待合所もあります。↑は待合所設置の時刻表、5時~21時台に亘ってまんべんなく運行されていて、一番空く時間帯でも毎時1本は必ずあります。通勤時は約20分毎と、かなり”使える”というか、頑張っているダイヤではないでしょうか^宝石ブルー

 

↑上リンクの2013年の作では、同線BRTは「震災で不通となった気仙沼線の代替バスとして当初運行を開始し、今後については地元と協議中」と書かれてますが、その後地元とJR間で『BRTを本運行に移行し、これをもって気仙沼線の本復旧とする』との同意が成立、それによってこの道の駅も、『正式な鉄道駅』としての使命が加わる事となったんです・電車

内部は勿論、当別荘でいつもご覧頂いている、”道の駅の楽しみ”満載です^^プレゼント

 

-*-*-

つづいては、気仙沼市の震災遺構を訪ねていきますが、その前に、風光明媚でしかも”ちょっと特徴ある”名所の岬があるので、寄ってみます目

↑標識にも出てますが、『岩井崎』です波

国道から浜のほうへそれて、2km程で着きますペンギン

気仙沼市中心部から南郊にあたり、市街地へむけ入り込む気仙沼湾の湾口に位置します霧

青森県から宮城県にかけての三陸海岸を広域に指定している『三陸復興国立公園』の南端近くがこの地域となります(※同国立公園の最南端は金華山のある牡鹿半島)

そんな岩井崎ですが、この岬の先端に『ビジュアル的にも面白い』名所があるんです^目

波が打ち寄せるたびに潮を高く噴き上げる”潮吹き岩”があるんです波

お~~

吹いてます!

波が来るたび、毎回『ブシュッ!!』と鳴って、岩の間から海水を噴き上げます。岩の間にうまい具合に波が通って圧縮される隙間があるとの事ですが、ホント”自然の造形美”ですよ^^虹

しばし、大自然の息吹を楽しみました^

日本には”ガッカリ名所”と図らずも銘打たれる所が数ありますが、ここ岩井崎はいわば”ガッカリ名所”ですよ^^、期待以上に楽しくて見応えある、しかも海のパワーが体感できる名所です^グッド!

また、岩井崎へ行ったら↑の木にも注目です。これは・

↑は松の枯木ですが『龍の松』と呼ばれ、当地に津波が襲来した際、ほとんどの松が流されてしまう中、この1本が残っていたとの事で、その姿が海に立ち向かう龍のようなので”龍の松”との名が付いたそうです。現在は復興のシンボルとして大切にされています。

岬なので勿論、、灯台もあります(岩井埼灯台)

また、この岩井崎付近の海岸からは、化石が非常に多く出土する事でも有名だそうですロボット

 

-*-*-

次は、岩井崎近くにある、気仙沼市の復興祈念施設を訪ねます。

同市立の東日本大震災遺構・伝承館は、被災した高校の校舎をまるごと保存して開設しています。

ここには、県立気仙沼向洋高校がありました。

上の写真でおわかりのように、校舎3階部分まで津波浸水し、全壊してしまいました。現在、内部見学できるようになっています。

前作でも津波被害の各自治体が運営する伝承施設をご覧頂いていますが、気仙沼市の施設は「見学順路」がカッチリ決められていて、まず映像シアターを見てから施設見学へ進むよう指定されます。

震災当時の気仙沼市を記録した映像を見たあと、校舎への廊下を歩きます(※受付・映像のある棟は震災後新築)

旧校舎へ入ると、様相が一変します。

まず1階部分からですが、被災した教室がそのまま残されています。

この気仙沼向洋高校は実業系の高校で(※元々は水産学校として創立した)、特別教室が多いのも特徴です。

現在は別の場所で再建し、授業を行っています。

校長室も、上の状況です。

上が校舎の配置図ですが、南校舎/北校舎の2棟がメインで、その左側に体育館がありました(※体育館は津波で全壊し、基礎しか残っていません)

順路は、一旦校舎外へと連れ出します。

外から見ると、南校舎の3~4階部分が津波によってえぐり取られているのが確認できます。津波の恐ろしい威力を無言で思い知らされます。

このあと順路は、その3~4階部分での見学となります。

教室内には机や椅子、参考書等が、被害状況を伝えるため当時のまま置かれています。

3階でメインとなる展示は、津波によって教室内まで流れついてきた自動車の様子です。

「電気磁気室」という実習教室だったこの室に、津波によって窓を破り、車が押し流されてきました。地上から約8mある3階まで、車が流れ着くという信じ難いこの状況、震災10年経った今も、この様子を見ると、当時の緊迫が生々しく伝わってきます。

また、現地解説板はこの車の出自についても述べていました。

この車は、気仙沼市内にある自動車修理店の所有で、震災当日は南三陸町の顧客に代車として貸し出されていたものだそうです。

次に4階、津波はここまで到達しました。

旧校舎の公開部分は、3階と4階に関しては約半分程で(※2階は非公開)、非公開部分とを隔てるガラスのむこうには、より生々しい姿が垣間見えました。

高校生の団体が見学に来ていましたが、震災当時まだ小さかった彼らがどんな感想を持ったか気になりましたが、しっかりと教訓を心に持って帰ってほしいと思いました・

さらに、南校舎は屋上も見学できます。

この屋上に、当時校舎にいた教職員や、北校舎で改修工事を行っていた工事関係者の方々、計45人が避難しました。

(※生徒は地震発生直後、津波到達前に徒歩で避難所へ向かい無事だった)

現地解説板によると、津波は校舎手前にあった冷凍工場にぶつかって力が減衰され、4階の床高25cmの所まで来ましたが、幸いにも屋上の浸水は免れました。

避難した人々はこの屋上で一夜を過ごし、翌朝たまたま流れ着いたボートで無事避難されたとの事です。

屋上からは太平洋、そして先程立寄った岩井崎等も見えます。

並行して建つ北校舎です。

間にある中庭には、津波の濁流が流れ込みました。

上がその際の写真です、流れ込んだ津波が恐ろしい状態となって中庭を埋めつくしています。

また、上は岩井崎の西方にある旭崎です。高い木がいくつか見えますが、津波当時、この木につかまって数人のかたが九死に一生を得られたそうです。

上の解説板によると、当時岬にいた8名の方々が松の木につかまって耐えていました。そこに偶然、アルミのはしごが漂着し、それを利用して、岬で一番高いケヤキの木へ避難、その後合流した2名のかたと共に、10名の命を1本のケヤキが救ったとの事です。

旭崎のケヤキは、明治三陸津波の後、当時の人々が「樹木は命を救う」との考えのもと植えていたんだそうです。実際その通り、命を救ったケヤキ、教訓と備えは大切だという事をまさに体現した出来事でした・

全壊した体育館(※屋内運動場)、屋上から見えます。屋根が津波で一瞬にして流されました。

屋上見学を終えると、地上へ降り、北校舎の廊下を通って見学終了となります。

途中、南北校舎の間で津波とともに漂着して折り重なった車が保存されています。

北校舎は1階の廊下を通り抜けるだけで、校舎内の公開はされていません。その廊下では、かつてここで授業をしていた頃の生徒さんの活き活きとした学校生活が写っていました。気仙沼へ行かれたら、是非実際に訪ねてみて下さい。

気仙沼市の「犠牲と教訓を絶対無為にしない」との決意がひしひしと感じられる、大変有意義な伝承施設でした。

 

-*-*-

前後編2作に亘って、津波被災各地の現状をご覧頂きました今年のツーリング納めですが、次がさいごの立寄り地です。

気仙沼市から県境を越え、岩手県南端の街、陸前高田市まで来ました。

国道45号、そして海岸沿いにある、”いわてTSUNAMIメモリアル”(東日本大震災津波伝承館)を、本作さいごにご覧頂きます。

大変広い敷地、横広の大きな建物ですが、ここは~

『道の駅 高田松原』と併設の施設です。

大きな建物は平屋建てで、北半分が震災伝承館、南半分が道の駅となっています。

以前からこの地に道の駅はあったんですが(※後ほど詳述)、震災後に国の主導で祈念公園や伝承館と一体として整備され、2019年に道の駅再オープンしました。

伝承館と道の駅の間は大きな吹き抜けとなっていて、海側にある祈念公園へとつづいています(※後程公園も歩きます)

まずは道の駅を覗いてみます目

道の駅入口にある「奇跡の一本松」の画

ここ、高田松原の奇跡の一本松は震災復興のシンボルとして全国的に有名ですが、後程訪ねます。

復興に頑張る地元産の土産品のほか、フードコートは複数店が入っており、僕ここで昼食にしましたナイフとフォーク

では、伝承館のほうを紹介していきます。

これまで各地の震災関係の館をご覧頂きましたが、ここは国設という事もあり、東日本震災全体からみる被害状況、さらには歴史からみた今回の震災について体系的に解説していました。

今次の大震災の『前回』とされているのが、約1100年前・869年に起こった貞観地震でした(※M8.3と推定)

今回と同じく、太平洋プレートが大陸からの押す力との歪みが蓄積して起こったと言われますが、その時も津波が同様に襲来しました。

今回の震災が「1000年に1度」と言われるのはここからきています。

明治に入り、近世となってからも、明治三陸地震、昭和三陸地震、チリ地震津波と、直近150年間で少なくとも三陸は3度、津波に襲われています。

 

勿論、時の政府も地域の方々もこの時の教訓を忘れていた訳ではありません。先程の向洋高校で旭崎のケヤキの話もありましたが、特にチリ津波の後は、三陸各地に高い堤防が築かれ、避難訓練も熱心に行われていました。

 

しかし今回の震災はM9.0、津波は所によって10m以上にもなり、想定をはるかに上回る未曾有の規模となりました。そのため、備えをしていたにも拘らず甚大な被害が出てしまいました。

そして、ここにも被害を無言で語る品々がありました。

岩手県内で被災した標識や駅名標等を集めている一角

上は、田野畑村の消防団が使っていた消防車です。

活躍する前に、津波で破壊されてしまいました。

気仙沼湾を渡る気仙大橋、震災で流失し、引き揚げられたその一部が展示されています。迫力に言葉がありません。

被災した海岸沿いのホテル、前述の2013年に走ったツーリングの際は僕も実際にこのような建物が沢山残っていたのを見ました。

このほか、企画展示室や映像室、証言を聞くコーナー等があり、教訓を未来へ伝えようとする施設です。

また、この伝承館の北隣には、震災以前の”道の駅の建物”だった、「タビック45」という建物が残っています。見学してみます。

駐車場から、北へ歩くと、上の三角の建物が見えてきます。

震災前までここが”道の駅 高田松原”でした。

震災遺構として保存されています。

津波喫水のレベルが記録されています。

14.5m という、信じられないような数値が書かれています。

建物の海側には、海を眺めながら休憩できるよう、階段状になっていました。

津波襲来時、道の駅にいた人々はこの階段を駆け上って避難し、辛うじて難を逃れたそうです。

つづいて、現道の駅の浜辺にある、津波復興祈念公園へ行きます。

大変広々と整備されています。

堤防にある階段を昇ると・

今は穏やかな、太平洋がみえます。

震災前は、この浜辺いっぱいに松林があり、まさに白砂青松の浜でした。震災がここを、防災のための堤防に変えてしまいました。

現在は再び松を甦らせるべく苗木の植林もされ、公園名の通り復興と祈りの場になっています。

上は、堤防から振り返って道の駅方面をみたところ。

広さがおわかり頂けると思います。

つづいて、この公園の片隅にある、奇跡の一本松を見学します。

ほとんどの松林が流失したこの『高田松原』で、一本だけ立ち続けていたこの松、2013年の三陸ツーリングでも訪ねて見学しました。久々の再訪です。

松は枯れてしまいましたが、保存処理をされた上、この現地で永久保存されています。前回訪れた時と変わらず、孤高に、そして優美に立っていました。

上の建物、2013年の作でも掲載しましたが、ユースホステルだったそうです。この建物が津波の力を減衰し、松が残ったのかもしれません・

僕が前回来た時は、まだ道の駅や伝承館、祈念公園は未完成で、奇跡の一本松も”仮設置”の状態でした。今回再訪して、復興への確かな足取りを歩んでいる陸前高田に、力づけられました。

この道の駅の前にもBRT駅(停留所)があります。次回再訪の時には、このBRTや三陸鉄道等でも訪ねたいと思っています。

三陸の空に陽が傾いてきました。

2021年ツーリング納め、そして大峠シリーズ第4章、ここで一区切りといたしますフラッグ

帰京の途につきます。

久々の東北ツーリングでしたが、震災の厳然とした記憶とともに、なぜかホッと暖かな気持ちにもなる不思議なパワーを持つ東北、これからも折にふれて訪ねていきます。ツーリングは来春まで”冬休み”に入りますが、秋に大量に取材してきている大峠シリーズの編集、まだ山のように控えてますので、冬の間になんとか上梓をおえるよう頑張りますwあせる

 

今年も早いものであとわずか、次作はいよいよ、毎年恒例『大晦日のアレ』です。お楽しみにグッド!

・また、年明けからの予告を少ししておきますが、これで第4章までupしました『大峠シリーズ』、次作の総集編以降、年明けは一般鉄道作を1~2作挟みたいと思っていて、少し”中休み”させて頂きます。

 

また、今年コロナ禍で取止めた、新年恒例の『東海道53次シリーズ』ですが、来年もお休みする方向で検討しています。決定は大晦日の作でお伝えします。

 

次回の”大峠シリーズ・第5章”は1月下旬頃からおおくりしますが、詳しくはまた大晦日の総集編で予告させて頂きます。しばらくお待ち下さいヒツジ

・ではまた、大晦日にお会いしましよう、よいクリスマスを、そして年末をお過ごし下さいケーキ