今夏の都内は、梅雨明け後もぐずついた天候が続いている昨今です
真夏の太陽照り付けているはずの8月に、こんな雨ばかり続くというのは、近年恒例(?)の異常気象でしょうか?一方、西日本では連日の猛暑となっています
そんな今日この頃ですが、そんな時に輪をかけて暑苦しい"アノ男"が登場します
今作は、「た」シリーズです
今年初登場(!)の「た」、降り立ったのは京急・横須賀中央駅
今回「た」から提示された企画は、港町横須賀の2大名所ともいえる、"軍艦三笠"と、その沖合に浮かぶ"猿島"へ行こうというもの。
同駅から歩いて20分弱程です
怪しげに市役所の横を通り、↑港へむかって行く「た」
着きました、↑海辺にある"三笠公園"
この公園の海沿いに、軍艦三笠が保存され、又、猿島への船が出る桟橋があります
まず、軍艦"三笠"見学から行きます。
明治中期に建造され、日露戦争の日本海海戦等で活躍した旧海軍の軍艦が、ここ横須賀に保存されています(※三笠の経歴については、後程艦内のところで詳述)
船尾には旭日旗が翻っていましたが、近隣国からの観光客がこれを見たら複雑な心境かもです。
まぁ今作は「た」シリーズなので、難しい事は抜きにします;
艦内へ入ります
↑目玉のように見える丸窓が面白いですが、鉄壁の傷み具合に歳月の経過も感じます。
ビデオルームで、三笠について勉強&休憩w
数々の海戦で挙げてきた戦果を、動画で解説
ビデオ室で少し座って落ち着いたところで^、中甲板にある展示コーナーへ
展示室に入るとなぜか不気味な笑みを浮かべる「た」、何をたくらんでいるのか・
三笠の歴史を語る数々の史料や年表に見入る「た」
ここで、軍艦三笠の経歴について纏めておきます
三笠は1900(明治33)年、イギリスの造船所で完成、スエズ運河を通って日本へやってきました。当時の日本は、このクラスの軍艦を建造する技術はまだ無く、輸入に頼っていました
就航早々に旗艦となり、日露戦争の日本海海戦等で大活躍しました。その時艦長として指揮をとったのが、アノ東郷平八郎です。
しかし同戦争終了後の1905(明治38)年に船内弾薬庫で爆発事故が発生、なんと佐世保港で沈没してしまったとの事
翌年引き揚げられ、佐世保で修理、奇跡の復活を果たしたそうです。
その後は第1次大戦でも使われましたが、同大戦後に世界的な海軍軍縮で合意したワシントン軍縮条約により、三笠は廃艦が決まりました。
本来は解体されるところでしたが、就航出来ないよう地面にコンクリートで固定するという条件で保存が認められ、1925(大正14)年より現在の横須賀港で固定。この時から”記念艦”となってたんです
第2次大戦の際にも空襲等の被害を免れ、なんとか持ちこたえた三笠でしたが、終戦直後に部材が略奪されたり進駐軍が娯楽施設に改造して使ったりしたりで、むしろ戦後になってからのほうが荒廃が進んだとの事
その後、紆余曲折を経て修復され、1961(昭和36)年に現在の姿となって一般公開されているという事です
現役当時船首に付けられていた、↑菊のご紋。
(※現在の船にはレプリカが付いている)
昭和感漂う、↑メダル刻印機が置かれていました
次は、幹部たちの部屋が並んでいたエリアへ
↑艦長室、意外と小さい印象でした
(※他の幹部室には会議スペース等もありました)
艦長専用の↑オフロ、英国製とあって純洋風です
操舵室も見学できます
舵に触れることも出来、荒海で命がけの攻防を繰り広げた往時を頭の中で想像しながらの一時を過ごせます
そして、ナントカは高い所が・という事で、↑艦の一番高い場所へ登る「た」w
↑このあと行く、↑猿島が見えています^
三笠の見学がおわりました^
ちなみにこの三笠、”世界三大記念艦”に選ばれているとの事。
あとの2隻は、アメリカとイギリスにあるそうですが、どういう基準で世界三大に選定されたのかは不明です
なお、2017現在管理は三笠保存会という財団法人が行っていますが、所有者は防衛省だとの事です。
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お昼になったので、「た」と↑のお店で昼食
横須賀という事で、名物の海軍カレーを食べます^
カレーの幟が立っていた、三笠公園近くの喫茶店へ
実は以前、「た」と撮影なしで一度横須賀へ遊びに来た事があって、その時にも別の店で海軍カレー食べたんですが、「た」は『今回の店のほうが美味しかった』と言ってました。
それは良かったw
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腹ごしらえも済んだところで、午後からは猿島へ
猿島への船は、日中のみ毎時1本出ています
なお、船賃は往復1.300円ですが、猿島を管理する横須賀市が2015年から”入島料”200円を徴収しており、船チケット購入の際上乗せして徴収されます
(※運賃/本数は2017年当時)
猿島は横須賀市の沖合約1.5kmにあり、東京湾内にある自然島では最大のものです(※千葉の富津沖にある第一・第二海堡は、明治政府が軍事要塞として埋め立てた人工島)
通年沢山の観光客が訪れる横須賀屈指の名所ですが、現在定住者はおらず、定義上は”無人島”という事になっています
行ったのが夏休み期間というのもあってか、平日にもかかわらず沢山の船客が乗ってました。
船室や甲板に思い思いの場所をとって、目の前に見える猿島を眺めながら出航を待ちます
出航しました!
爽やかな海風が、爽やかでない「た」にも吹きつけますw
わずか10分少々の船旅で、↑猿島が目の前に近づいてきます^
猿島上陸です
桟橋からすぐにある↑レストハウス
猿島では夏海水浴やバーベキューも可能で、そのための更衣室や各種レンタル、売店等も完備されています
なお、猿島は戦前、前述の富津沖海堡同様、帝都東京を守る要塞として軍事目的で使われていました。一般人へ観光用に開放されたのは戦後になってからです。
そんな"2つの顔"を持つ猿島を、これから「た」と探索します。
まず要塞跡を歩きます
島内には縦横に遊歩道が整備され、要塞の跡をつぶさに見学できるようになっています
レストハウスのすぐ裏手にある、↑要塞当時の”発電所”
1985(明治28)年完成、蒸気機関で発電していたそうです。
さらに島の奥へ・
この遊歩道も、要塞当時に通路としてつくられたものです。
戦前この島は超軍事機密で、前述の通り一般人は入れない秘密の島でした
「た」の右横↑にある煉瓦積みですが、これが・
この煉瓦積みの中が、まさに要塞だった場所です。
島内の通路は、直角に曲がったと思えばトンネルもあったりで、万一敵が上陸した場合にも、見通しがききにくいように設計されたとの事です
トンネルを抜けると~
桟橋と反対側の海岸に出ます
あちこちに砲台の跡が残っています。
明治期に造られたものや、昭和期に入ってから防空のため増設されたものもあります
海岸の岩場に、"日蓮洞穴"というのがあるとの事なんですが、そこへ行くには、↑断崖の階段を降りる必要が・
帰り道大変なのが確定ですが、行ってみます
断崖下の岩場に着きました。
↑岩の下の隙間に、洞穴があるようです。
↑奥行は30m位あるそうなんですが、狭くて入れません
ここでは、弥生~古墳時代の貝塚や墳墓の址が発見されたそうで、他の猿島全域からも古代の住居跡等が発掘されており、この島では太古から人が上陸し生活していたという事です
なお、ここで日蓮上人が修行したとの言い伝えもあり、日蓮洞というそうです。
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次は、島の高台へ・
「た」は、この付近で蜂に刺されそうになってました
高台の上まで来ました
見通しが良ければ、対岸の千葉方面まで見えるそうです
現在も大きな米軍基地がある横須賀ですが、東京湾の入口という地勢から、常にこのような役割をさせられてきた街です。
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島内戦跡見学を終え、↑桟橋近くまで戻った「た」、レストハウスで更衣、「た」の希望だった、お待ちかねの海水浴w
猿島の周囲は先程ご覧の通りほとんどが断崖や岩場で、海水浴が出来るのは、桟橋付近の狭いエリアに限られます。
そのため、↑の砂浜には凄い人が集中します
猿島がこれだけ人気な理由は、"船で行く"というイベント感に加え、関東の海岸では最近禁止が多い"バーベキューが可能"だという事もあると思います
前述のレストハウスで用品レンタルもあるので、その便利さも人気の要因かもです
一方、猿島ではキャンプや宿泊(野営)は禁止されており、夜間は滞在出来ません。観光客は遅くとも、17時に出る最終便の船で島を離れる必要があります
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ここで「た」が、僕に何やら"猿島には秘密がある"(?)と力説し始めました
「た」の言説によると、『猿島のレストハウス等で働く人は、片付け等で忙しく、最終の船には間に合わない。そのため、従業員用に実は、"対岸との秘密のトンネル"がある』と、なぜか僕に力説(?笑)
僕は、「じゃあなぜそれを一般観光客に開放しないのか?」と「た」に聞くと、『トンネルを観光客自身に歩かせると、そんなに高い通行料もとれないので、観光客には”船しかない”と言って割高な船賃をとるためだ』と、相変わらずのハチャメチャな"た節"展開していました
でもあえて「た」説に応援すればw、かつて要塞の島だったので、そういう秘密のトンネルがあったとしてもおかしくはないと思わなくもないですが・
そんなこんなでビーチで過ごすうち、雲行きが怪しくなってきました。島を離れる事にします
帰りの船に乗り込みます
往路と同じく、京急で帰京します
歩き回った末、海水浴までしたので、↑疲労の色が濃い「た」w
しかし、蒲田で途中下車し、↑一杯飲ませると、たちまち元気を取り戻す「た」w
この後蒲田駅から、どこへともなく消えてゆきました
又、いつかどこかで!
(※2024.4 文一部修正)