はじめに
こんにちは、まるこです
横浜美術館にて開催中(~6.24)の「ヌード ~英国テート・コレクションより~」に行ってきました
感想と、…あとね、この展覧会が(まるこの苦手な)現代アートとの付き合い方・距離の取り方を考えるきっかけになったので、そんな話も入れつつ、いろいろと感じたこと思ったこと、誰かに伝えたいこと等書きました。
興味ある方、どうぞお付き合いください
NUDE展ざっくりと紹介
英国テートの所蔵作品より、19世紀後半ヴィクトリア朝の神話画・歴史画から現代の身体表現まで、西洋美術の200年にわたる裸体表現の歴史を見ていくことが出来る展覧会です。
構成
①物語とヌード
…ヴィクトリア朝の神話画や歴史画、彫刻・立体作品
②親密な眼差し
…近代美術が開かれ、身近な人の日常を美化せずに描く衝撃
③モダン・ヌード
…肉体をさらに簡略化して描くなどの現代美術
④エロティック・ヌード
…肉欲に直結する表現
⑤レアリスムとシュルレアリスム
…現実を超えて
⑥肉体を捉える筆触
…
えーと、一言でどう表現したらいいのか分かりません。私の理解と語彙の範囲を超えている
⑦身体の政治性
…政治的な主張(性差別・人種差別への問題提起など)をヌードを通して表現
⑧儚き身体
…人の身体の儚さや死をテーマにした表現
それぞれの章ごとの感想や時代の変遷について
①物語とヌード
第一章では、ヴィクトリア朝時代の神話画や歴史画、彫刻・立体作品が展示されていました。
ヴィクトリア朝とは、イギリス、ヴィクトリア女王(在位1837~1901年)の治世を指します。
産業革命や植民地支配などにより繁栄を極めた大英帝国を象徴する女王の時代です。
絵画史の本を読むと、イギリスはあまり絵画が発展しなかったと書かれることが多いですが、女王は英国の芸術家の後援をしていたそうで、この時代は大衆向け芸術が発展したようです。
イギリスは他国に比べ絵画は後進国であったことに対して、文学・物語においては先進国と言われます。
特にヴィクトリア朝は文学黄金期といえる時代だと思います。
絵画は物語色の強いラファエル前派が活躍した時代でもあります。(←あえて特筆したのはまるこが単純にラファエル前派が好きだからです。えこひいきです)
そんな時代に描かれたヌードですが、この時代はまだ古典的(クラシック)な時代で、従来のアカデミーのルールに沿った形の表現と言えると思います。聖書や神話に基づいて、登場人物が裸でもおかしくない場面を描いています。また、その裸は理想化され美しく描かれていると言えます。
②親密な眼差し
第二章は19世紀後半~20世紀初期の近代絵画を中心に展示されていました。
近代絵画とは、19世紀なかばまでの”国立アカデミーの価値観の枠にはまった従来のクラシック”から抜け出そうとした芸術家たちの時代と言えると思います。
この章では、身近な女性の日常をそのまま描かれた絵が多かったという印象でした。
モデルの個性を追求し、理想化されない自然な裸体に新しい美を見出しました。
③モダン・ヌード
第三章は20世紀初めころの、肉体を簡略化して描くなどの現代アートを中心に展示されていました。
近代絵画が開けると、芸術家たちはそれまでの「何を描くか」から「どう描くか」へと表現をシフトさせてきました。画家一人ひとりそれぞれがそれぞれの哲学で、思想で、技法で、表現を始めた時代と言えると思います。(個人の見解です)
写真の発明後、絵画はいかにして生き残り差別化を図るか、絵画の特徴や魅力を引き出そうとそれぞれが模索した時代とも言えるかもしれません。
④エロティック・ヌード
第四章では、肉欲に直結するような作品が展示されていました。
メインはロダンの《接吻》。《接吻》についての感想は後述します。
ターナーのスケッチはなかなか際どかったです…
売春宿で物陰に隠れてスケッチしてたのかな?って思ってしまう程の妙なリアルさが、正直、「アーティスティックなエロティック・ヌード」なのか「ポルノ」なのか???その違いはどこにあるのかと困惑しました。
⑤レアリスムとシュルレアリスム
第五章では、現実主義、超現実主義のヌード表現作品が展示されていました。
…えーと、ちょっとまるこには説明できない
数年前ダリ展に行ったときに、結構本読んだりしたので”ダリのシュルレアリスム”は頑張って飲み込んだつもりだったけど。。。
いろいろと象徴的なシンボルがそれぞれ散りばめられているのですが、古典作品と違って、画家によってシンボルの意味付け・解釈がそれぞれ違うので。。。一つ一つ解説してくれないと意味が分からないので困惑しました。
⑥肉体をとらえる筆触
第六章では、ベーコンやルイーズ・ブルジョワなどを中心に…
なにねぇ、なんて言ったらいいの…あの~、展示されてました
何をどう説明して、どう感想言ったらいいのか…
完全に私の理解と語彙の範疇を超えています。
⑦身体の政治性
第七章では、アーティストの政治的な主張を織り交ぜた作品が展示されていました。
性や人種による差別とか、支配者階級への抗議など…政治的な問題提起をアーティスト独自の方法で展開しているといった感じでした。
⑧儚き身体
第八章では、人体の儚さや死を連想させるような作品が展示されていました。
それぞれ、主張があったようです。
まるこメモの吐き出し(好きな作品・苦手な作品、どこが良いか・苦手かその理由)
展覧会を見るとき、まるこはいつもバインダー片手に感じたことなどをメモしています
メモしないとその瞬間のフレッシュな気持ち忘れちゃうからね
そのまるこメモから、好きだな~と思った作品や、困惑した作品とその理由など…ただ感じたままに吐き出していきたいと思います
(※作品の前の番号は展覧会の通し番号です)
2.ターナー《風景の中で頭と腕を上げ、跪く男性ヌード》
風景画の巨匠でお馴染みのターナーのスケッチなんですが、裸体男性が描かれていました。結構しっかりした筋肉質の体でしたが、硬さよりもしなやかさが際立って見えて美しいと感じました。題に”風景の中で”って書いてあるけど、風景は緻密ではなくかなりざっくりでしたね。
6.ミレイ《ナイト・エラント》
この絵は騎士が囚われた女性を助けているという絵ですが、描き上げた当時は女性が騎士の方を向いていたそうで、それが「品がない、はしたない」とか批判されたためミレイは描き直しています。で、その時にキャンバスの当該部分を四角く切り取って新たなキャンバスを縫ったようなのですが、よく見ると確かにその縫った痕跡が分かったので「おおっほんとだ」ってなりました
10.メリット《締め出された愛》
題名を見て、ここに描かれている少年は(翼はないものの)クピドだろうなと思ったので、絵の中にその根拠を探すとやっぱりありました、地面に矢が落ちていましたね
クピド:性愛の神。翼のある幼児の姿で弓矢を持って描かれることが多く、その矢に当たると恋に落ちるとされる。わりと気まぐれやイタズラで矢を放つ。
じゃあ、気まぐれで愛をあやつるクピドが矢を放り出し「ねぇ、開けてよ~」ってなってる状態ってなんなんだろうな~って、しばらく眺めて思いを巡らせました。描かれた植物(バラ?→愛の花)は枯れてるし、”受け止めてもらえない愛”を感じました。
あとで展示スペースにある図録をペラペラして読んだところ、メリットは女流画家なんですね。当時はアカデミーの決まりで女性が男性のヌードを描くことは禁じられていました。そこで彼女は少年の後姿を描いたようです。
主題ですが、彼女は結婚後3か月で夫を亡くしました。彼への追悼の意味を込め描かれたものなのだそうです。それを知ると余計に”締め出された””受け取ってもらえない””受け取る相手がいない””行き場のない”愛が辛いですね。
12.ドレイパー《イカロス哀悼》
私が展覧会で一番好きだなと思ったのは、ドレイパーの《イカロス哀悼》でした
墜落したイカロス(人間の男)に興味津々なニンフがめっちゃのぞき込んでいる絵です。
イカロス:ギリシャ神話に登場。発明家で大工のダイダロスの息子。親子で幽閉されてしまうが、牢に落ちてきた鳥の羽を集めて蝋で固め翼を作り脱出するという父のアイディアを実行。飛ぶ際に、父が「海に近づけば蝋が湿気るから良くない。太陽に近づけば蝋が溶けるから良くない。絶対に真ん中を飛ぶように。」とイカロスに忠告するが、いざ自由に飛べるとなるとイカロスは太陽神にも近づけるという傲慢さから太陽に近づき蝋が溶け海に墜落した。(この神話では人間の傲慢さや技術への批判を語っている)
まず、イカロスがめっちゃいい体こういうのを”理想化された体”と言うのね。三角筋からの上腕の筋肉がたまらんねちょうどいい鍛え感。
まぁ、落ちてきたのを拾い集めたにしてはずいぶん立派な鳥の羽なので…「なんの羽だよ」と突っ込みポイントはありますが…その羽の描写がまた美しかったです。
羽の先は赤黒いけど身体の周りの羽は白っぽいからイカロスの浅黒い肌が浮かび上がってきます。さらに、ニンフ(セイレーン?)の真っ白な陶器のような肌も画面の中で際立ちます。
イカロスの肌の色は(特に脚など緑がかって)生気を失っているように見えます。また、腰布の一部が赤い布になっていて、その赤もまた死を連想させます。そしてセイレーンの美しい肌もまた美しすぎることで現実感を失い生気を感じない(おそらくこれは”人間らしさを感じない”という感覚かも)と感じました。
羽の描写とセイレーンの肌の描写の美しさは印刷物(本やポストカード)では分かりません。ぜひ実物を見てほしいと思う一枚です
16.ドガ《浴槽の女性》
近代になると古典芸術から脱皮しようとした芸術家が現れ、身近な女性の日常を描き、自然な裸体に美を見出しました。
ドガのこうした構図は、ジャポニスムの影響(主に北斎の影響)を受けていると言われます。
ドガ自身がこの絵に「我々は鍵穴を通して彼女をのぞき見ている」というコメントをつけていますが、見ているとなんだか”見てはいけない姿を見てしまっている”という背徳感からのドキドキが快感に変わっていくのを感じました。(って私は変態か)
今思い出したんだけど、「のぞくという行為は、相手に気づかれずに相手を支配する行為」だと何かで読んだ気がします。この絵を見て感じた快感は彼女を支配・征服しているということからくる支配欲・征服欲が満たされたことによる快感なのかもしれません。(知らんけど)
19.グウェン・ジョン《裸の少女》
少女の目が何かマイナスの感情を訴えかけてくるように見えて、見ていてちょっと不穏になる絵だと感じました…
彼女は画家に言わせると「嫌な性格だった」のだそうです。なんか、画家とモデルのぎこちない関係性が画面から伝わってくるようですね。
個人的な感想ですが、そんな絵を家に飾りたくはないですね。
23.ボナール《浴室》
奥さんの入浴を描いているのですが…変だよね
もっとお湯入れればいいのにって。私、学生の時一人暮らしだったんですが、自分のためだけにたっぷりのお湯を入れてお風呂に入るのがもったいなくて20cmくらいしかお湯はらずに、ちょうどこんな感じの姿勢で入浴したことを思い出しました
学生一人暮らしあるあるだよねよね
39.ジャコメッティ《歩く女性》
ザ・ジャコメッティっといった感じの長く引き伸ばされ肉付けのない人物の立体作品。
頭と腕がない人物でしたが、制作当初は頭も腕もあったそうです。
ジャコメッティが”頭と腕は必要ない”と判断したからとってしまったのだと思いますが、なぜそうしたのかと、そうすることによってどんな効果があるかなと私なりに考えてみました
んー、題を《歩く女性》としているので、この作品は”歩いている部分だけ(脚だけ)”がメインであって、他は必要ないというかむしろ邪魔・蛇足だと思ったのかな
ちょっと話変わりますが、出土した古代ローマの彫刻で腕などが欠けているものがありますね(サモトラケのニケとかミロのヴィーナスとか)。それらの彫刻がなぜ人々の視線を惹きつけるのかについて考察を巡らせていたテレビ番組を昔見たことがあって、それによると、”人は欠けている部分を無意識に脳内で補填・補足しようとする”のだそうです。
で、一部が欠けた像の前で人は自由に不足した部分を補おうとするのですが、その行為が像の前で足を止め視線を奪われることにつながるのと、鑑賞者が最も美しいと思う状態を脳内で作り出すゆえにその作品が美しく見える、的なことを言っていたような気がします。
ジャコメッティの《歩く女性》は、無駄な情報がないことで歩いている状態が際立つとともに、鑑賞者が不足した部分を無意識に脳内で自由に”もっとも美しく”補填することで、その像にいつまでも視線をとられるのかな…などと思いました。(個人の感想です)
46.ターナー《カーテンのひかれたベッド、性行為中の裸の男女「色彩研究(1)」スケッチブックより》
章ごとの説明でも少し触れましたが、英国風景画の巨匠でお馴染みのターナーさんのかなり際どい絵です。暗い画面に単色でなんとなく描かれてるものが分かるような分からないような…といった不明瞭さでごちゃごちゃっと描かれ、見る者の想像力をかきたてます。
(エッチ・スケッチ・ワンタッチ…言いたいだけ)
こうしたターナーのエロスケッチは、彼の死後、彼の名声を守るために遺産管理人の手によって多くが焼却されたそうです。わずかに残っていた一部を今回目にすることが出来たわけです。
「売春宿の部屋に潜んで、物陰に隠れて描いたんかな」って思ってしまうような妙にリアルな構図がなんとも異様です。専門家によっては「鑑賞者もまた、のぞきの共犯者となる」などと解説していますが…んー、私はそうは思いませんでした。というか、ターナーはこのスケッチ群を発表するつもりはなかったと思うからです。根拠はありません。
発表するあてなく、人の性行為をのぞいてスケッチしてたとしたら…やべぇやつだなって。それはただの性癖か芸術への探求心か…
(一応名誉を守るため言っておきますが想像の世界で描いたことも考えられますのでその限りではありません。自然に対して畏敬の念を起こさせる躍動的で力強く壮大な、そして美しい絵を残したターナーさんのすばらしさは変わりません。)
50.ロダン《接吻》
今回のメイン、ロダンの《接吻》
二人はダンテの『神曲 地獄篇』に登場するパオロとフランチェスカがモデルです。
(以前、ロダン作《地獄の門》について調べたときにパオロとフランチェスカについて詳しく書きました。二人について知りたい方はこちらの記事をご覧ください。)
題が《接吻 the Kiss》なんですけど、二人の口元はどの角度から見てもほとんど見えません。でもそれが逆に下品になってしまうのを抑えているような気がします。(とはいえ、発表当時は「品がない、卑猥だ」と批判されたようですが…。)
展覧会中のビデオで語っていた学芸員によれば、「このキスは言わば”死に導くキス”ですが、その刹那的行為をロダンは力強く、不滅な存在へと変えました。」と言っていました。さらに、「唇よりも手や脚に目がいきます。口元は意図的に隠されているようだし、近くで見てみると細かく造形していないようにも見えます。」と言っていました。
確かに、私がこの作品を見ていて特に視線を奪われたのは口元ではなく男性の右手でした。とても優しく女性の太ももに手を添えているのが官能的と感じたからです。
あと、男女の筋肉の造形の違いが印象的でした。特に背中を見比べると分かるのですが、女性の背中は柔らかそうでしなやかです。男性の背中は非常に細かく一つ一つ筋肉の動きが再現されているので力強くたくましさを感じます。
私はロダン作品はブロンズしか見たことなくて、今回初めて大理石を見たのですが…触れたら柔らかそうで温かみまで感じられそうな質感が衝撃でした。
NHK「日曜美術館」でこの展覧会について放送していたときに、「もし一か所だけ触ってもいいよって言われたらどこを触りますか」などと話していたのですが…私なら、男性の右手か男性の背中ですね。(一つに絞れてない)。番組中では「やっぱり胸でしょう」などとクソつまんないこと言ってましたが…(いや、ディスってないよNHKでそれ言っちゃうのはそれはそれでおもしろいか)、私が男だったら…そだねー、女性の両太ももの間に手突っ込みたい
あなたはどこを触ってみたいですか
展覧会のコンセプトへの感想
今回、裸体表現を通して、西洋美術史の変遷や、アーティストのあり方のようなものを見ることが出来たと思います。
古典、近代、現代、という流れの中で、ヌードがどのように捉えられ描かれてきたのかを体系的に見ることが出来たのは面白かったです
現代アートへの困惑
自由な芸術、そして自由な主張が許される今、表現方法や表現の主題は無限です。
ヌード表現を通して、政治的な主張、肉欲への挑発・戒め・非難、差別(性・人種)への問題提起など…多様な主張を見てきました。ヌードに限らなければ、反戦とか、環境保護とか、テクノロジーへの警鐘とか…挙げればきりがないですけど、現代アートはあらゆる主題をアーティストそれぞれがそれぞれの方法で表現しています。
私の好きな西洋美術は宗教画とか神話画なので、普段は現代アートは見ません。
嫌いというわけではなく、興味が沸かなかったから観るきっかけがなかったのと、理解できないと感じていたからです。
作家のダン・ブラウンさんがビルバオ・グッゲンハイム美術館(現代アートに特化した美術館)を訪れ学芸員と話をしたときに聞いた”現代アートとは”という定義がすべてを語っていると思ったので紹介します。
学芸員が言うには、「現代アートの定義というのは”(作った人が作ったものを)アートと意図していればそれはアート”」なのだそうです。それに対して、ダン・ブラウンさんは「古典アートは”アーティストの力”が問われていた世界でしたが、現代アートというのは”コンセプト”や”アイディア”が評価されるのです。」とおっしゃっていました。
(※ダン・ブラウンさん講演会より。講演会について書いたまるこの記事はこちら)
うん、そうなんですよね。作り手がアートとして発表している時点でアートなので、受け取り手がどう思おうが関係ないんですね。…それを前提に、彼らが何を発信しようとしているのかを受け取るのが現代アートの醍醐味といった感じですかね。
…まぁ、なんというか、私なりの現代アートとの付き合い方を見出すことができた展覧会かなと
この言い方だと完全に現代アートとは距離をとろうとしているよね
買ったもの
ここでまるこが購入したグッズをご紹介って言ってもポストカードしか買ってないけど。。。
NUDE展のショップでこちらのポストカード4点購入
美術館のショップで輸入ポストカード3点購入
(クリムト《接吻》、レオナルド・ダ・ヴィンチ《ウィトルウィウス的人体図》、モロー《岩の上の女神》)
美術館のショップには書籍もいっぱいあったし、輸入の(多分ね)いろんなグッズがあって楽しかったです
おわりに
私が心にとめている古代ローマの格言の一つに「人は人が(自分が)理解できないことを非難する」という言葉があります。
私が誰か(何か)を否定的に感じた時、その原因が”私が彼ら(それら)を理解できていないだけ・理解しようと努力していないだけ”なのだとしたら、その否定的な気持ちをいったん引き取り、彼ら(それら)を理解しようと試みるようにしています。またはなぜ理解できないのか理由を探り言語化するようにしています。
自分が理解出来ないからという理由で他者を排除するのはちょっと違うかなと。
でも、理解したうえで(理解しようと努力したうえで)、やっぱり否定的な気持ちが消えないのなら、それは個人の好き嫌いの問題として捉えています。苦手・嫌いと思う権利はありますからね。でも決して非難・攻撃してよい権利ではありません。
なんか話が壮大にずれちゃったけど…この展覧会を通して、現代アートとの付き合い方を考えるきっかけになったという話でした
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今回も長々と書いてしまいました
ここまで読んでくださった方、ありがとうございます
「まるこ頑張って書いたね~」「美術館って案外面白そうだね~」「なげぇよでもここまで読んだよ」って思ってくださった方、いいね!してね
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パオロとフランチェスカについて知りたい方はこちらの記事へ
ダン・ブラウン大先生の講演会レポートを読みたい方はこちらの記事へ