最近、祖母が亡くなりました。
90歳なので、ある意味“十分”な人生だったのかもしれません。
満州で終戦を迎え、生死をさまよいながら、
子供を何人も連れて帰国したそうです。
戦争を知らない私には、想像もできない現実があったのでしょうね。
その頃の話を聞いておきたかったのですが、あまり話したがらなかったです。
いくら身内でも、人には立ち入ってはいけない記憶がある。
それを土足で踏みにじるようなことはできません。
私には、その死を聞いても、悲しみはないです。
身内の「死」は、まだそれほど経験がないのですが、
先に生まれた人から死んでいくのは、幸せなことだと感じるからです。
親孝行は何か?
人それぞれ考え方はあるでしょうが、
私は「親より先に死なないこと」だと考えています。
子に先立たれることこそ、自分が親の立場なら、
やるせないものは、ないのではないか・・・。
だから、親に何かをすることよりも、とにかく先に死なないことが大事だと思う。
私は、死ぬことに恐怖感がない。
ただ、いま死んだとしたら、無念さはある。
でも、それは何歳になっても、あるのかもしれない。
だから、その「無念さ」も含めて、人生なんでしょう。
死ぬことよりも、死に至る過程の「苦しみ」には恐怖感がある。
でも、その「苦しみ」もまた、人生の一部。
そこだけ、遠慮するってことは、人生に対して失礼なのかもしれない。
死んだ後のことを気にする人がいるが、それこそ徒労である。
死後の世界があるかどうかは、死んでからのお楽しみ。
分からないことは、分からなくても平気だから、分からないように出来ている。
気にすることなんてない。
「うまく死ねなくて、500年も生きてるよ(笑)」
なんて人間、いませんから。
みんな、ちゃんと死ねます。
ちょっと早いか遅いかの差。
違いっていっても、たった100年くらい。
人類の歴史、地球の歴史からすれば、微々たる違い。
そんなものです、人生は。
だからこそ、つないでいくことに意味があると思える。
それは子供という「遺伝子」なのかもしれない。
それは積み上げてきた「文化」なのかもしれない。
自分は、バトンをつなぐ、そのひとり。
それ自体に意味があるかどうかは、分からない。
でも、次に渡していくことに、生きることの“本質”があると思えてしまう。
だから、冥福は祈りません。
それよりも、「よくぞ生きましたね」と祖母の人生に乾杯したい気持ちです。