モノの価値は、失ってみないと分からない。
「平和」もそのひとつ。
戦争中、どれほど多くの人々が平和に暮らせたら、と願ったことでしょう。
ただただ、空襲の恐怖のない生活がしたい。
ただただ、おなかいっぱい、ご飯が食べたい。
ただただ、ゆっくり眠れる世界になって欲しい。
戦争に正義もクソもない。
どちらが正しいなんてこともない。
勝った側が、「自分たちこそ正義だ」と言えるだけ。
いつの時代も、どんな国でも、この法則は同じ。
そして、戦争を繰り返してしまう、人間の愚かさも、いつも同じ。
平和な世の中にするための努力は見えません。
平和をぶち壊せば、それは事件となり、歴史に残ります。
けれど、平和を維持する行為は事件ではないので、歴史に残らない。
実際に起こったことを羅列したものが、歴史。
起こらないように努力したことでは、歴史にならない。
洞爺湖サミットがありましたが、その警備のため、どれほど多くの人間と税金が使われたことでしょう。
テロを起こすのは、簡単です。
しかし、それを未然に防ごうと思えば、これだけのコストがかかってしまう。
何かが起こらないようにするには、どれほど莫大なエネルギーが必要かってことです。
「健康」も同じことが言える。
病気やケガをするのは簡単です。
けれど、そうならないように気をつけることには、多大なエネルギーが必要。
しかも、どれほどエネルギーを注いでも、病気になるときはなるし、死ぬときは死ぬ。
健康を維持するということは、つまりしんどいことなんです。
どれほど努力しても、永遠に「平和」ってことはないでしょう。
どれほど摂生しても、ずっと「健康」でいられるってものではない。
では、何もしないでいいのか?
それは違うでしょう。
例え戦争になる可能性があっても、例え病気になる可能性がなくならなくても、いい状態を維持していこうとする努力は、それ自体が美しい行為である。
「健康」で「平和」な生活。
これ以上、何を望むべきでしょうか。
もう、十分じゃないでしょうか。
何も起こらないように維持していくことは、難しい。
だからこそ、その困難な課題に真正面から取り組む行為は、美しいのである。