マルです。




小田氏治の華麗なる戦歴について、まずは初陣から。歴史に疎い私です。まとまるかなぁ。



カブト 河 越 夜 戦 

小田氏治の初陣は日本三大奇襲の一つ 1546年 河越夜戦です。8万の連合軍vs.8千の北条軍。おまけに相手の北条氏康は駿河に出陣中で河越城を留守にしていました。ど素人の私が考えても氏治側連合軍が確実に勝つだろうと思える戦いです。


小田氏治12歳   お顔はイナイレのキャプテン円堂君です。不屈の闘志と眉毛が似てませんか?


氏治パパの政治も、息子の初陣としてはうってつけの戦だと思った筈。倒した相手が北条氏康なら箔が付く。8万の軍にちょこっと加勢し勝てば「初陣で北条氏康を倒したぞい」 と言えたのです。


が、まさかの敗戦。楽勝かと思われた初陣でしたが、残念な黒星スタートとなってしまった氏治です。


もちろん氏治が悪かった訳ではありません。(もともと戦力外?)  北条氏、凄すぎです。8万の連合軍を、出先から戻ってきてたった8千の兵で蹴散らすなんて。


でもこの時小田城はまだ無傷です。氏治にとっての本当の戦いはここからです。この後まだまだ黒星を重ねていくことになるとは。しかも落城という大きな黒星が9つも含まれてます。



カブト小田氏治と北条氏

小田家と北条家は『河越夜戦』より古く、鎌倉時代から長く深い繋がりがありました。両家の関係はお互いの家の滅亡時まで、敵となったり味方となったりしながら続きます。


氏治は初陣で北条氏康に敗戦し地元に逃げ帰ってくると、今度は地元 常陸国で小田城をめぐる攻防戦で大忙しです。時々相模国の北条氏の所までお出掛けもします。

 



北条氏は 1556年 結城氏の援軍として小田を攻めてきましたが、数ヵ月後には結城氏を裏切り小田側に付きました。おかげで氏治は小田城を取り戻すことができ無事帰還。


しかし氏治は1561年 上杉謙信に従い北条攻めを行うことで、謙信に佐竹氏との不和を仲裁してもらい城を取り戻したりもしています。


そして謙信が越後に戻ると、またしても北条氏に後ろ楯になってもらおうと謙信を裏切ります。それを知った上杉謙信はカンカンです。そりゃそうでしょう。


初陣では敵として戦った北条氏康の助力を得るため北条側に付いたかと思えば、再び北条氏を攻めたり、また和睦し援護してもらったり。


氏治は何度か北条氏と敵対しています。北条氏康・氏政親子は殺し合いをした相手を何度も許した上に、その息子 小田友治を家臣(人質とも云う)に迎え入れ、氏治から要請があればはるばる常陸まで援軍を送り込んでくれます。心が広い。


しかもさすが北条家。味方に付けば、落とされた城をしっかり奪還できるのです。


氏治は小田原成敗で北条氏政が豊臣秀吉の攻撃に晒されているときでさえも、しきりに北条に援軍を要請しています。ホントそれどころではなかった北条氏。


1590年 豊臣秀吉の小田原成敗により北条家は滅亡。豊臣方の佐竹氏を(小田城奪還のため)攻撃していたことで、小田家は領地没収され滅亡。


但し、氏治はまだ死んでいません!




敵になったり味方になったり、戦国時代にはよくあること。それでもやはり何度攻撃されても 和睦しては氏治の窮地を救っていた北条親子も、小田氏治の不思議な魅力にはまっていたのでは。


小田氏治、本当にどんな魅力があったのでしょうか。謎です。





↓小田氏治について書いた記事です