四国霊場第八十四番札所・屋島寺(やしまじ)《過去のブログ記事より》 | 石川鏡介の旅ブログ

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四国霊場会公認先達(権中先達)&秩父観音札所連合会公認先達です。四国霊場を中心に、古寺名刹、神社、城跡、名所旧跡。さまざまな旅の思い出を綴ります。

 

 

 四国八十八ヶ所の第八十四番札所は屋島寺(やしまじ)です。正式には南面山(なんめんざん)千光院(せんこういん)屋島寺といい、宗派は真言宗御室派で、本尊は十一面千手観世音菩薩、開基は鑑真和上、所在地は香川県高松市屋島東町一八〇八番地、最寄駅は琴平電鉄志度線の潟元駅、または琴電屋島駅(志度線)、JR四国の高徳線の屋島駅です。

 開基の鑑真和上といえば、日本に初めて本格的な「戒律」をもたらした僧として日本史上に名高く、中国大陸から日本への渡航に何度も失敗して(遭難)、六度目にしてやっと成功、苦難を乗り越えた人として映画に描かれたこともある人です。

 その鑑真和上が日本に渡り奈良へ向かう途中、瀬戸内を航行している時に屋島の沖合で、屋島の山頂からの瑞光をみて、屋島にたちより、伽藍を建立した。それが屋島寺の始まりだといいます。

 この屋島は今でこそ四国と陸続きになっていますが昔は海に浮かぶ島で、琴平電鉄の線路の近くに用水路のような川がありますが、島だった当時はその辺りに海水があって島と四国本島との境だったようです。

 その名の通り屋根のような形をしていて、麓からが急斜面で上がほぼ平らで、南北に細長い、面白い形をしています。北側は北嶺といい、南側は南嶺といいます。鑑真和上の時代の寺は北嶺にあり、その後、弘法大師が訪れた時に南嶺に移転して現在に至っています。

 屋島そのものは古代に城のあった場所で、遠くから見ても実際に登ってみても、なるほど、城をつくるに相応しい場所だ、と思えます。ちょうど瀬戸内海に突き出たような形で、三方が海、南だけ陸に向かっているとはいえ、どちらにせよ急斜面で、海からはもちろん陸からも攻めにくいのです。そして山上はそれなりに広さがあるので、大軍を引き受けて戦えるだけの軍勢で籠城できそうです(食糧と水さえ確保できれば)。

 屋島といえば、四国霊場や鑑真和上について詳しくない人でも知っているであろうことがあります。源氏と平氏の戦、「屋島の合戦」の舞台がこの辺りだということです。

 平安末期の寿永年間、木曽義仲の進撃により都落ちした平氏一門が一度は九州にまで落ち延び、その後勢力を盛り返して、屋島を仮の御所としました。平氏擁する安徳天皇は屋島の合戦が行われるまでこの屋島にいたわけです。

 地形を考えると、幼い天皇を死守しようとする平氏側の意気込みと、それをどう攻めようかと考えた源氏側の苦心が伝わってくるようです。

 源義経は嵐の中を船出して四国に渡り、阿波の恩山寺(四国霊場第十八番札所)近くに上陸して、途中、三番札所の金泉寺などに立ち寄りながら急行し、嵐の中をまさか陸側から敵が来ることはあるまいと油断していた平氏側を奇襲しました。まず周辺の村に火を放って大軍が押し寄せたかのように見せ、慌てさせ、赤牛崎という浅瀬のあたりから海(といっても運河のような感じだったか)を渡ったようです。

 その後のことは歴史ドラマなどでよく描かれるところです。那須与一が扇の的を射た話とか、義経の弓が流された話とか、義経の家臣の佐藤継信が義経の身代わりとなって(義経に向かって飛んできたので義経の前に立って矢を受けた)討ち死にした話などは、あまりにも有名です。

 その激戦が行われた後、源氏の兵が刀を洗ったという池が屋島寺の近くにあります。

 寺は鎌倉時代以降に衰退したようですが、江戸時代になり、領主の生駒氏の寄進を受けて修築が行われ復興したとのことです。

(2013年11月30日の「石川鏡介のブログ」の記事を再編集)

 


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