四国八十八ヵ所の第四十七番札所八坂寺に参詣してから、別格二十番霊場の第九番の文殊院へ行きました。宗派は八坂寺と同じく真言宗醍醐派、本尊は地蔵菩薩と文殊菩薩。所在地は松山市恵原町三〇八番地。浄瑠璃寺から八坂寺へ向かった時に進んだ道をそのまままっすぐ行きますと文殊院の門前に出ます。
四国別格二十番霊場とは、四国八十八ヵ所以外の、弘法大師ゆかりの地とされる番外霊場のうち、二十の寺が昭和四十年ごろに結集(けっしゅう)してつくられたもので、一番が大山寺、二番が童学寺、三番が慈眼寺、四番が鯖大師本坊、五番が大善寺、六番が龍光院、七番が出石寺、八番が十夜ヶ橋(永徳寺)、九番が文殊院、十番が西山興隆寺、十一番が生木地蔵(正善寺)、十二番が延命寺、十三番が仙龍寺、十四番が椿堂(常福寺)、十五番が箸蔵(はしくら)寺、十六番が萩原寺、十七番が神野寺、十八番が海岸寺、十九番が香西寺、二十番が大瀧寺です。
文殊院は「遍路の元祖」と言われる衛門三郎ゆかりの寺です。まず、お遍路さんになる人間で「衛門三郎」を知らぬ者はおるまい、といえるくらい、衛門三郎は有名な人物(伝説の人物ですが)なのです。
衛門三郎の伝説はこのようなものです。むかしむかし、荏原の庄といわれたこの地に、衛門三郎という欲深い長者がいた。ある日、衛門三郎の屋敷に一人の托鉢僧があらわれた。衛門三郎はけちな男だったので、「おめえに喰わせる米はねえ!」とばかりに、托鉢僧の持っていた鉄の鉢を叩き落とし、追い返そうとした。すると、鉄鉢は八つに割れて飛び散った。
托鉢僧に対してそんなことをした報いなのか、その日から衛門三郎の八人の子供が次々と死んでいった。衛門三郎は驚き、嘆き悲しみ、あの托鉢僧が弘法大師だったのでは、と思い大師の後を追い、四国霊場をまわる。そして二十一回目の巡拝のおり、十二番の焼山寺の麓まで来て、病のため行き倒れる。そこへ弘法大師が現れ、衛門三郎の死に際の願いを聞く。衛門三郎は、伊予の国司の河野家の者として生まれたい、と言う。弘法大師は願いを聞き、小石に衛門三郎の名を書いて彼に握らせる。
それからどれだけの月日が経ってからか、河野氏に男子が誕生したが不思議なことに手を握ったまま、なかなか開かない。その子がやっと手を開いた時、小石が落ちた。その小市には「衛門三郎再来」と書かれていた。
…ざっと、このような物語であります。
衛門三郎が握り、河野家の男子が生まれたときから握っていたという小石(とされるもの)は、現在、五十一番札所の石手寺の宝物館にあります。そして、伝説の衛門三郎の屋敷跡に建てられたという寺がこの文殊院なのです。
境内は、そう広くはありませんが、弘法大師と衛門三郎の像が印象的です。
(2011年9月 6日の「石川鏡介のブログ」より転載)

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