竹寺こと八王寺の本尊は「牛頭天王」ということですが、日本国内で牛頭天王を祀る霊場というのは非常に珍しいのではないでしょうか。寡聞にして知りません。本尊となっている所となると尚更だと思います。
竹寺の解説文によると、
「牛頭天王は、インド祇園精舎の守護神ともいわれ、中国に入り、密教、道教、陰陽思想の習合があり、日本に伝わったとされています。さらに陰陽道との関わりを深め、また蘇民将来伝説とも結びつき、スサノオと同体とされています。当山では、疫難消除、除災招福、出席開運、の『天王さま』として信仰されています」
とあります。
この本尊の牛頭天王は、本地堂(瑠璃殿)や観音堂、本坊などより一段高い位置にある本殿に祀られています。「本堂」ではなくて「本殿」です。つまり、神社としての建物です。
神が境内の一部に祀られているお寺なら幾らでもあり、境内の中にお社があるお寺もまた珍しくありませんが、本尊は社殿に祀られている、というのは珍しいと思います。
明治維新以前は神仏習合思想があって、神と仏が一緒であったりお寺の境内に神社があったり大きな神社の別当寺としてお寺があったり、というのはよくあることでした。しかし、明治維新後の神仏分離令で神道と仏教は完全に切り離されました。竹寺(八王寺)のように境内の高い所に本尊を祀る神社があって、その下に本地仏を祀るお堂があるというのか貴重で、それこそが「神仏習合の姿を今に残す東日本唯一の遺構」といわれるゆえんでもあります。
本殿には木造の牛頭天王坐像と、牛頭天王の八人の子という「八王子」の像があり、十二年に一度、丑年に開帳されるということです。
牛頭天王本宮とも、牛頭天王本殿ともいわれる建物ですが、そのお祭り「牛頭天王祭」は七月十五日に仏式にて行なわれる、と案内書にあります。
ご開帳が十二年に一度ならば、滅多にお目にかかれないわけですが、境内の、本地堂の近くには「牛頭明王」のブロンズ像があります。平成四年に、中国の有志によって寄贈されたものだそうです。
バイキングか、もしくは外国のプロレスラーにでもいそうな姿で、日本人がなじんでいる神の姿とは明らかに違うものです。
ちなみに、岩波書店の『岩波仏教辞典』には、牛頭天王の説明として、
「もとは、インドの舎衛城の祇園精舎の守護神。牛頭天王は、東方浄瑠璃世界の薬師如来の垂迹といわれ、…(略)頭に牛の角を持ち、夜叉の如く、形は人間に似る。猛威ある御霊的神格だったことから素箋鳴尊に習合され、京都祇園の八坂神社に祀られて除疫神として尊崇される」
とあります。
八坂神社の主祭神はスサノオノミコトで、「スサノオ=牛頭天王」という信仰があり、牛頭天王が祇園精舎の守護神とされたことから八坂神社がもともとは「祇園」と呼ばれた、ということでしょうか。八坂神社はもともと「祇園天神社」とも「祇園社」とも呼ばれていましたが明治元年に神仏分離政策によって仏教と切り離され「八坂神社」と改称されたのです。
慈覚大師円仁は比叡山に登り伝教大師最澄の弟子となり第三世天台座主となった人ですから、京都の祇園ゆかりの牛頭天王を関東で祀ったのも、あながち不思議なことではないのかもしれません。
ところで、牛頭天王のブロンズ像を作成した中国仏教協会側が書いたらしい「牛頭明王像由来書」には面白いことが書かれてあります。簡単に言うと、大日如来は無量寿仏とも言われ、無量寿仏の憤怒の相が牛頭明王なのだというのです。仏教がインドからチベットや西域を経て中国へ伝わった過程でいろいろな信仰が混ざり、中国流の解釈ができた結果なのでしょうか? 一般的に「無量寿仏」といえば阿弥陀如来のことなのですが。そのあたりの信仰の流れ・解釈を考えると興味が尽きません。