武蔵野三十三観音霊場の第三十番札所は福徳寺です。正式には楊秀山福徳寺といい、宗派は臨済宗建長寺派、本尊は聖観世音菩薩、所在地は埼玉県飯能市虎秀七一番地です。
二十八番の瀧泉寺や二十九番の長念寺へ行った時に通った国道二九九号線をそのまま秩父方面へ向かい、長念寺からは約千六百メートル、西武池袋線東吾野駅からは約三百メートルほど進んだところで右折し、高麗川の支流を遡る狭い道を行きます。すると右手に福徳寺への参道が見えます。
私は瀧泉寺や長念寺へクルマで行った日より後、電車で二十三番の浄心寺、三十番の福徳寺、三十一番のお寺の三ヶ寺に行きました。山深い所を電車と歩きで行くのも、なかなか良いものです。
高麗川の流れもよりいっそう清く、福徳寺近くの支流も清流そのものでした。
福徳寺の本堂の手前(参道から本堂に向かって左側)には阿弥陀堂があります。かなり古い建築様式で、堂内の厨子とともに重要文化財となっているそうです。その中に安置されているのは長野の善光寺から招来した四十五センチあまりの大きさの鉄製の阿弥陀三尊像で、県指定文化財だということです。
堂の外側は板戸に覆われ、中の様子がまったく分かりません。お寺の本堂によくあるタイプの、ガラス戸の引き戸だとか、観音開きの扉というわけではなく、まるで厳重に封印してあるかのようでした。
ちょうどそこへ背広姿の男性(年齢は四、五十代か)が来て、阿弥陀堂をじっと見つめていました。すると間もなく、地元の人らしい作業着姿の男性(年齢は五十代くらいか)が現れ、ちょっとした長さの杖を出しました。杖のようなものの先にはフックがついていて、作業着姿の男性はそのフックを板戸のちょっとした隙間に入れました。よく見ると、クイックイッと動かしているうちに戸の下の部分が動いて、男性は堂の庇の部分に釣り下がっていたフックに板戸の下の部分を引っ掛けました。
雨戸ならば左右に動かし、戸袋に戸を一枚一枚収納するのですが、そういうものではありません。戸袋はなく、左右に動かすこともなく、ただ、上部が支点になって、庇から釣り下がったものに引っ掛けるのです。庇から釣り下がっているものは、ちょうど鳥かごや物干し竿を引っ掛けるもののようにも見えました。そういうものが間隔を置いて幾つもあり、戸一枚一枚引っ掛けて、堂の中がはっきり分かるようになったのです。
これは珍しい建築だと思いました。
背広姿の男性と作業着姿の男性のやり取りを聞いていると、どうやら背広姿の男性はどこかの団体の幹部らしく、団体がこの阿弥陀堂を見学するために下見に来たという様子でした。作業着姿の男性はこの地域の人で、阿弥陀堂の管理を任されている人らしい、ということが分かりました。
私はその団体とは関係ないのであまり話しかけるのもどうかと思われたので黙っていました。ただ、建築様式については気になったので、帰宅後、父に阿弥陀堂の戸のことを話すと、そのような戸は「ヨロイ戸」というのだ、とのことでした。
福徳寺の創建は建暦二年(西暦一二一二年)で、開山は宝山禅師だと伝えられています。その頃の古い建築の形がこのような山奥だからこそ、そのまま伝わっているということでしょうか。
一方の本堂は、まるで山奥の村の集会所のような趣で、お寺の本堂というイメージとはちょっと違いました。無住のお寺で、誰か使っている形跡など全くありませんでした。お寺の管理、納経の受付は、国道と福徳寺への曲がり角から国道を秩父方面へ八百メートルほど進んだ所にある興徳寺で行なっています。