武蔵野三十三観音霊場の第二十六番札所は聖天院(しょうでんいん)です。正式には高麗山聖天院勝楽寺といい、宗派は真言宗智山派、観音霊場札所としての本尊(お寺の本尊は不動明王だが)は聖観世音菩薩、所在地は埼玉県日高市新堀九九〇番地です。
二十五番札所の円泉寺から西へ向かい、角に病院のある交差点で右折し、JR八高線の線路を越え、そのまま八高線の線路と平行してはしる県道三〇号線を進みます。やがて高麗川駅の前に出ますがもう少し進んでから左折。ちょっと入り組んだ複雑なところに入りますが、高麗川の川沿いまで来ると「高麗神社」の案内板があるのでそれに従って進み、橋を渡ります。
高麗神社の前を通り、ちょっと南へ進むと聖天院の前に着きます。そこでクルマを停めました。私が聖天院を参詣した日は十一番の普門院から始めて十二番の全徳寺、十四番の妙善院、十五番の松林寺、十八番の蓮華院、十九番の東光寺、二十番の龍円寺、二十一番の高正寺、二十二番の円照寺、二十四番の観音寺、二十五番の円泉寺、そして高麗神社とまわりました。高麗神社参詣後、聖天院へ向かったのです。
かつて朝鮮半島北部に存在した高句麗王朝が唐と新羅のために滅ぼされ、高句麗王家の人々をはじめとした高句麗の人々は日本へ逃れました。そして主に東日本に住み着き、さまざまな経緯があって、現在の埼玉県西部、高麗川のほとりに集められ、開拓し、「高麗郡」が形成されました。
亡命王族の高麗王若光をまつったのが高麗神社で、若光の守護仏「聖天」を本尊として高麗王家の菩提寺として建てられたのが聖天院です。若光の侍念僧の勝楽上人を開山として天平勝宝三年(西暦七五一年)に建てられたということです。
開山以来約六百年は法相宗のお寺だったそうですが、南北朝時代の貞和年間(西暦一三四五年ごろ)中興の秀海上人のときに真言宗に改められ、安土桃山時代の天正年間に円真上人に胎内仏が弘法大師作だという不動明王像を本尊とされ、聖天尊は別壇に置かれて現在に至っているといいます。
江戸時代には高麗郡の本寺として、門末の寺五十ヶ寺を擁するほどの大寺院だったそうで、今でもその面影はあります。
いや、むしろ、現在では寺の境内の規模が拡大しているのかもしれません。高麗神社のつづきの山の中腹に建てられているのですが、平成十二年、もともと本堂があった所よりさらに上に大規模な本堂が建てられ、旧本堂のまわりも現本堂の裏も整備されて、京都や奈良の大寺院にも匹敵するような規模のお寺だと感じることも出来ます。
その先に中門があり、そこが受付で、拝観料を払います。大人三百円です。
中門の先には庭園があり、書院・庫裏があります。庭園も書院も立派なものです。
雷門から中門まで上がって左側には阿弥陀堂があります。観音霊場札所本尊の聖観世音菩薩像はその阿弥陀堂にあります。
阿弥陀堂の脇から石段を上って行くと、なんとも力強い感じの金剛力士像があります。
その力士像の先に大きな本堂があります。