武蔵野観音霊場・徳林寺(狭山市)《過去のブログ記事より》 | 石川鏡介の旅ブログ

石川鏡介の旅ブログ

四国霊場会公認先達(権中先達)&秩父観音札所連合会公認先達です。四国霊場を中心に、古寺名刹、神社、城跡、名所旧跡。さまざまな旅の思い出を綴ります。

 

 武蔵野三十三観音霊場の第十七番札所は徳林寺です。正式には福聚山徳林寺といい、宗派は十四番の妙善院・十五番の松林寺・十六番の慈眼寺と同じく曹洞宗で、札所本尊は慈眼寺と同じく聖観世音菩薩です。所在地は埼玉県狭山市入間川二丁目の三の十一番地で、最寄り駅は西武池袋線狭山市駅です。

 このお寺のおもしろいところは、本堂などのある境内と観音堂とが離れていることです。山の中の札所では珍しくないですが、街の中の札所としては珍しいのではないでしょうか。

 慈眼寺から西へ向かいますと、道が緩やかなカーブになっていて、下り坂です。坂を下りきると右手に神社があります。神社の鳥居がある所より少し先で右折して細い道を行くと徳林寺の三門前に出ます。慈眼寺から徳林寺までの道のりは、およそ六百メートルか七百メートル。古くからの宿場町の雰囲気がなんとなく残る街の中を行く道です。

 このあたりは昔から、奥武蔵と江戸を結ぶ交通の要衝でもあり、織物が盛んな上州や八王子を結ぶ交通の要衝でもありました。また、狭山市や入間市という土地は狭山茶で知られるようにお茶の栽培の盛んな所でもあります。そういう土地柄ですので単なる片田舎ではありません。歴史的にも重要な土地とみえ、新田義貞が鎌倉を攻める時、ここを本陣として一週間ほど滞在したらしいです。

 ガイドブック(平幡良雄著『武蔵野観音巡礼』満願寺教化部発行)に「ここはもと新田義貞の本陣で、義貞は一週間あまり滞在した」と書いてありますので、お寺が仮の住まいとして相応しいから徳林寺に滞在したのかと思いましたが、お寺の開山の一樹和尚という方が天文二年(西暦一五三三年)に亡くなられたということなので時代が合いません。ですから、新田義貞の本陣があった所にお寺を建てた、ということなのでしょう。

 三門はなかなか渋い造りで、本堂は近代風にも見えるしっかりした造りです。これらは南向き(厳密に言うと南西か)に建っているのですが、観音堂はこれらのある境内ではなく、墓地を挟んで北側にあります。少し距離があり、本堂のほうからは観音堂が見えないので飛び地に建っているような感じです。

 私は外に出て境内の外側に道を北へ向かい、狭山市駅と市民会館とを結ぶ道に出ました。観音堂の入り口はこの通りに面していて、ちょっと高い位置にあります。

 不動堂と観音堂とが並んでいて、観音堂の後ろには大きな石の観音坐像があります。

 観音堂は北向きで、本堂などとは反対側を向いているというのも面白いです。

 この観音堂にある聖観世音菩薩像は、もともとは唐から日本にもたらされた物ということで、新田義貞の守護仏だったともいわれています。

 観音堂参拝後、また本堂のほうに戻り、納経所へ行きました。この納経所の女性(ご住職の奥様か)がたいへん親切な方で、武蔵野三十三観音霊場では平成二十二年の総開帳の時に作ったらしい記念散華があって納経に来た巡礼に渡すのですが、在庫切れのお寺もあって私は頂いた散華もあれば頂いていない散華もあったのですが、他のお寺の分の散華も下さったのでした。このお寺は特別にたくさんの在庫をもち、なおかつ他のお寺の分まで持っていたらしいです。

(2011年10月 9日の「石川鏡介のブログ」より転載)

にほんブログ村 旅行ブログ 遍路・巡礼へ
にほんブログ村