武田氏終焉の地・景徳院(2012年2月 8日の「石川鏡介のブログ」より転載) | 石川鏡介の旅ブログ

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四国霊場会公認先達(権中先達)&秩父観音札所連合会公認先達です。四国霊場を中心に、古寺名刹、神社、城跡、名所旧跡。さまざまな旅の思い出を綴ります。

 甲斐善光寺へ行った後、甲府市内で昼食をとり、次の目的地、景徳院へ向かいました。

 景徳院は武田勝頼・その息子の信勝・勝頼夫人の北条氏が自害した場所に建てられたお寺です。所在地は山梨県甲州市大和町田野三八九番地。宗派は曹洞宗で、正式には天童山景徳院といいます。120125_1540011

 武田勝頼は天文十五年(西暦一五四六年)に武田信玄の四男として生まれました。四男でもあり、正室(三条氏)の子でもなく、武田と対立していた諏訪氏の血を引く者である為、甲斐国主の跡継ぎとはみなされませんでしたが、武田信玄の長男は信玄と対立したため自害、二男・三男は病弱だったため、信玄の死後、天正元年に、二十八歳で甲斐の国主となりました。

 しかし、実際は、武田家では、勝頼の息子の信勝が武田の正式な跡取りとされ、勝頼は信勝が成人するまでの後見人として、仮に甲斐国主とされました。

 この微妙な立場が悲劇の原因だったとも言えるでしょう。

 勢力を拡大して上洛の兵を進めるという信玄の遺志を継いで、勝頼は徳川や織田と闘いましたが、天正三年(西暦一五七八年)の三河国での長篠の戦において大敗し、信玄を支えていた有能な家臣の多くを失いました。

 多くの兵を死なせた「大敗」でのイメージダウンも大きいものでしたが、多くの猛将・知将・謀将を死なせたことは甲斐武田家にとって致命的なものでした。勢力拡大どころか、領土を守ることも苦しくなったのです。

 それでも強引に出兵を重ねたのは武田の仮の当主ではなく真の後継者としてその名を轟かせたい、という思いがあったからでしょうか。しかし、その出兵は裏目に出ました。無理な出兵で国が疲弊し、支城に援軍を送れず落城させたりで、周辺豪族や家臣たちの信頼を失いました。

 天正六年の、上杉謙信の死後の越後国における上杉家の後継者争い(いわるゆ「御館の乱」)で景勝に味方し、北条氏から上杉氏に養子に入った景虎の側につかなかった為、北条氏の姫を政略結婚で後妻に迎えていたにもかかわらず北条氏を敵にまわすこととなり、北の上杉景勝以外は皆敵という状況に陥りました。越後から甲斐までは遠く、冬場は国境が雪に閉ざされるので、その時期の援軍は期待できません。これではほぼ孤立状態です。

 そのような状況で天正十年一月に一族の木曾義昌が織田方に寝返り、織田・徳川の本格的な侵攻が始まりました。勝頼の異母弟・仁科盛信が高遠城で織田の軍勢を支えようとするも三月一日に高遠城は落城。ここで勝頼は残った家臣とともに善後策を協議しました。

 この時、信濃国の一部と上野国北西部を領する真田昌幸が勝頼を自領に招きました。また、甲斐東部の郡内地方を治めている小山田信茂も勝頼を招きました。ともに難攻不落の山城を持つ武将です。自分の領地へ来ればどのような敵が来ても防ぎきり、武田家の家名を保ってみせると言ったわけです。

 勝頼は小山田の岩殿城へ向かうことを選びました。小山田が譜代の家臣(信玄よりも前の代からの家臣)であり、岩殿城が近かったからです。

 結果的にこれが裏目に出ました。岩殿城へ向かう途中の笹子峠の上り口で足止めをくらい、いくら使者を送っても返事が来ません。背後からは織田の軍勢が迫ってきます。やがて笹子峠に柵が設けられ、鉄砲が撃ちかけられました。この変事に驚き、さては小山田がこの期に及んで裏切ったのかと絶望し、追い詰められ、ついに日川の渓流に近い田野の地で夫人や信勝とともに自害して果てたのです。

 結果論ですが、この時、小山田を信頼せずに真田昌幸の領地に向かっていたら、あるいは武田の家名は存続したかもしれません。真田の領地は上杉の越後と境を接していたからです。

 とはいえ、武田が滅亡したからこそ、織田信長も安心して京へ戻ったのであり、そこにて本能寺の変が起こったのですから、武田家がここで滅亡しなかったら本能寺の変が無かったかもしれず、上杉・真田軍と織田・徳川軍との全面対決があったかもしれません。歴史がその後どうなったか、分かりません。

 さて、「もしも…」の話はおいといて、武田家滅亡後に本能寺の変が起こり、信長の命で甲斐を治めていた川尻氏が一揆(武田の残党の一斉蜂起か)により落命すると、無主状態になった甲斐へ北条氏と徳川氏が兵を送りました。結局、織田信長亡き後の甲斐は徳川家康が領することとなり、家康は甲斐領民の鎮撫の為に、武田氏終焉の地・田野にお寺を建てました。それが今の景徳院なのです。120125_1518011