源義経は、ジンギスハンだったと昔から言われていますが、実際どうだったのでしょうか?
源義経は、最後は奥州国(岩手県)で自刃し、31歳で生涯を終えたと言われています。
しかし、実は義経は死んでおらず、蝦夷(北海道)へ逃げ、アイヌの人の助けを受け、中国大陸に渡ってチンギスハンになったという説があります。
1189年に義経が奥州国(岩手県)で自刃するのですが、1206年前にチンギスハンが歴史上に登場しモンゴル帝国を成立させる訳ですけど、義経が歴史の舞台から消えたあとに、チンギスハンが歴史の舞台に登場します。
義経=ジンギスハンの類似点は・・・・・
その1 まず2人の戦術が似ていまして2人とも”奇襲攻撃”が得意です。
義経は「一ノ谷の戦い」も「屋島の戦い」
ジンギスハンは、ケレイト王国と戦った際には、ケレイトの君主を急襲すること
で勝利し、モンゴル高原統一のきっかけをつくっています。
その2 源氏の家紋とジンギスハンの家紋が似ている
また、モンゴル大陸には笹はないのに笹の紋章を使用しているのは可笑しい。

その3 中国では一般的に短い弓や矢が用いていましたが、チンギスハン軍は日本の大型
の弓と同じような弓を使い、中国人から「長い弓の盗賊」と恐れられていた。
その4 源義経の推定身長は147cmで、チンギスハンも身長が低かった。
また、2人ともお酒を飲めなかったようです。
顔も2人とも切れ長の目が似ていますよね。

その5 源義経は9男なので「九郎義経(くろうよしつね)」という別名があり、兄・頼朝
は義経のことを「九郎(くろう)」と呼んでいた。
ジンギスハンも「クロー」という別名があり、親しい者からは「クロー」と呼ばれ
ていた。
※チンギスハンが即位した時、歴史書「蒙古史」には”九旒(くりゅう)の白旗(し
らはた)を興安嶺(こうあんれい)上にひるがえした。”と記載されているそうです。
白旗=源氏の旗印
九旒は「九郎(くろう)」と似ている
蒙古の古城跡では「城主はクローと称していた」という言い伝えが残っているよう
です。
その6 チンギスハンが中東商人にどこから来た?の質問に「出身地はニロンのキョト村」
と答えたという記録があります。
「ニロン」=「日本」
「キョト」=「京都」
その7 チンギスハンの「ハン」は君主や有力者が名乗る称号であり、日本の役職名を示す
「守(かん)」に由来し、義経を指しているという説がある。
その8 チンギスハンが滞在した熱河省(現河北省北東部)に「へいせん」という地名があ
り、これは義経ゆかりの岩手の「平泉」によるという説があります。
その9 沿海州ナホトカとウラジオストクの間に「ハンガン」という岬と泊地があり、義経
(九郎判官)が上陸したことから名付けられたという説がある。
その10 モンゴルの城壁の外装は「マク(幕)」、白い天幕は「シラ」と呼ばれている。
その11 モンゴル人がつくった中国の王朝である「元」は源義経の「源」から名付けられた
可能性がありますし、モンゴルには「源」という苗字がとても多い。
以上のようにとても共通点が多いです。
最初に”源義経=チンギスハン 同一人物説”を説いたのは江戸時代に来日したドイツ人医師の
シーボルトと言われています。
有名な話ですが、シーボルトが中国に渡って「建靖寧寺記(けんせいねいじき)」という碑文を
見たときにモンゴル語で記載されており、読めなかったので中国人に内容を聞いたところ
「元(モンゴル人がつくった中国の王朝)の太祖は元々日本人で、兄の怒りに触れて蝦夷に渡り、彼らを服従せしめて満州に移って蒙古に赴き、中国を治めて帝位に上り、源氏の源を借りて元と国号を改めた」と記載されていたとのことです。
また、義経はどのようにして中国大陸に渡ったかというと、義経は北へ北へと逃げ奥州国(岩手県)で自刃せず、蝦夷(北海道)に移動しました。
そこでしばらく滞在し、アイヌの助けを受け樺太を経由して中国大陸に渡ったようです。
実際、ニコラエフスク(現ロシア)に石碑があったそうで、石碑には「義経」などの漢字と「笹竜胆」の紋章が刻まれていたそうです。
※現在は、撤去されたみたいです。
また、1670年に幕府の命令で作られた「本朝通鑑」という書物では
”源義経は、衣川で死なず蝦夷地に渡った。蝦夷には義経の血を引いた者がいる”
と記されています。
さらに、水戸光圀(水戸黄門で有名)の蝦夷地の調査報告書には
「義経はオキクルミ(農耕や狩猟の神)としてアイヌ人に崇められている」
「蝦夷地には義経や弁慶にまつわる地名が多い」
と記載されています。
ジンギスハンが活躍した時期は、義経が亡くなったといわれるのは1189年ですがジンギスハンが表舞台に立ったのが1190年の十三翼の戦いになります。
それ以前のジンギスハンの半生は不明になっています。
1227年にジンギスハンは亡くなっていますがその孫であるフビライハンが1274年に日本へ攻め入っています。※元寇の乱(文永の役)
なぜ、日本を攻め入ったのでしょうか?
モンゴル帝国を建立し、さらに国土を広げるために日本に攻め入ったのでしょうか?
地理的に見ても海を挟んでいますので相当なリスクを伴います。
リスクがあっても日本を攻め入る目的があったのでしょうか?
やはり、源頼朝への復讐があったのだろうと考えられますよね。
問題は、実際に自刃したか?どうかだと思います(ここから私の新説)
義経は、激怒した頼朝から藤原秀衡のもとに向かい庇護を頼んだわけですが義経が平泉に
入って9か月後に亡くなってしまいます。
そして秀衡の遺言は、”義経を君主として息子の國衡・泰衡の3人で力を合わせ、頼朝の攻撃に備えよ”というものでした。
家督を継いだ泰衡に対して頼朝は、義経追悼の圧力をかけ続けます。そして圧力に屈した泰衡は、ついに衣川の戦いで義経を妻子とともに自害に追い込むのです。
泰衡、國衡は、当然義経に自害に追い込めたくなかったはずですが頼朝が怖く義経の自害を
どうやって追い込むのか迷っていいたと思います。
※國衡は、正室の子ではないので権力についてはあまり興味は無かった(諦めていた)
國衡は、別としてそうとう泰衡はビビっていたハズです。
そこで、國衡が義経を自刃したことにしようと画策し、代わりの首を秀衡四男の藤原高衡に運ばせます。
首を運んだ高衡は、泰衡派のようにふるまっていましたが、実は隠れ義経派だったはずです。
私の憶測ですが隠れ義経の國衡→高衡のラインによって死んだことにしました。
ですから、平泉から鎌倉まで43日も掛け、首が誰のか?わからなく画策したと思います。
※鎌倉まで500キロの移動を43日掛けていますので少し時間掛けすぎです。
1日40キロ移動が出来たとして13日もあれば移動できます。
それが証拠に泰衡が第四代当主になった時、弟の忠衡・通衡・頼衡の3人は義経派として動いていたので、義経が自害したとされる日からすぐ後に、3人とも泰衡によって殺害されています。
ですから自刃してません。
あとの否定的な問題はジンギスハンの出自になります。
ジンギスハンの半生については、モンゴルの伝説的な「元朝秘史」に記載されていますが
イェスゲイ・バアトルの子テムジンとして記載してあります
テムジンの生年については、当時のモンゴルに歴史を記録する手段が知られていなかったので
信憑性は微妙です。
歴史を記録する手段が無かったのですから後から創られたものの可能性があります。
歴史は、勝者が創る・・・
そんな感じかな?と思います。
あと、その他の否定的な問題点としてDNA検査の結果が取り出されています。
2004年に発表されたオックスフォード大学の遺伝学研究によると、モンゴルから中国北部にかけて約1600万人の人々が、チンギス・ハンのDNAを受け継いでいる可能性があるという研究結果を発表しました。
しかし、ジンギスハンのDNAを調べたわけで無くモンゴルから中国北部に掛けて約1600万人の人々が特定のY染色体があるというだけでジンギスハンのDNAとは限らないのです。
ですから、源義経=ジンギスハン説は正当です!